2010年12月31日金曜日

モンハンがにくい

僕はあんまりゲームをしないひとです。友だちとWiiパーティするとかは、めっちゃ大好きなんですが、ひとりでゲームとか全然しないひとです。


2010年12月23日木曜日

新しいものの側に立ちたいという欲求

僕には新しいものの側に立ちたいという欲求があります。

いまこの冒頭の一文を書いたときに、僕は一瞬ひるみました。そして「たぶん」という言葉を一度入力しました。とまどって、消しました。もう一度書き直しました。


2010年12月21日火曜日

子どもたち

友人の主催でゲイとシングルマザーが集まる会に参加しています。(レズビアンとかシングルファザーとか、ほかにもいろんなひと集まる感じっぽいけど)


2010年12月20日月曜日

「たとえば今夜一緒に歌って そうか きっと僕らであうために生まれた」THINK ABOUT AIDSでFUNKISTが僕におしえてくれたこと

FUNKISTというバンドを知っていますか。

僕もつい先日まで知りませんでした。7人編成のバンドで、音楽のジャンルは…なんだろ、ファンク? ほんとに知ったばかりだから、よくわかってません。

THINK ABOUT AIDS――東京FMとLiving Together計画のコラボで生まれたイベント。3年続いたこのイベント。先日行われたファイナル、最終回に参加してきました。


2010年12月3日金曜日

宇多田ヒカル"SINGLE COLLECTION VOL.2"の「Show Me Love (Not A Dream) 」は同性愛の歌ではないか

待ちに待った宇多田ヒカルのニュー・アルバム。シングル・コレクション2の新曲をみなさんはもう聞きましたか?


2010年12月2日木曜日

クリスマスソングの葛藤

ニコニコ動画で人気になっているヒャダインさんのクリスマスソングがとてもいいです。ヒャダインさんいいよね。一応たぶん全曲追いかけてます。


2010年12月1日水曜日

男色系男子はレッドリボン運動に賛同します。

男色系男子は、というよりも、僕、久家雅博はレッドリボン運動に賛同します。

僕の友達や恋人は気兼ねなく、僕に「実は陽性者なんだよね」と打ち明けてください。とりあえず「へえそうなんだ」って僕は言います。

「今まで黙っててごめん」っていうのも、しかたないよ。

そしてもしも僕の友達や恋人が、HIVに感染したことでなにか悩みを抱えているなら、僕なりの方法で君の力になる方法を全力で探すから。もしもよければ打ち明けついでに、悩みまで聞かせてください。

もしも僕の恋人が、HIVに感染していたとしても、僕はいつもどおり、君と僕がそうしたいと思えるセックスがしたい。君が言いたいことがあれば言えばいいし、聞かれたくないことがあればそれは聞かない…というのはちょっと嘘。僕が聞きたいことは聞くけど、君のことが好きなのだから、それくらいの興味くらいは許してほしい。それから、セックスしたあとで打ち明けられたって、僕は怒りだしたりなんかしないから。逆に、君がそれでつらくないなら、本当につらくないなら、黙っていたっていいよ。

よろしくお願いします。

2010年11月17日水曜日

このまま電車で、青森にいきたくなる。

僕のすむ部屋にはテレビがありません。

見たい映像は以下の手段で済ませます。

ワンセグとYouTubeとニコニコ動画とTSUTAYAと近所の定食屋のテレビ。以上。

テレビがみたくないわけじゃありません。僕の場合、テレビがあったら生活がダメになってしまうのです。なので、意図的にテレビは部屋から排除しました。

そんなわけで僕、最近のテレビCMなどにはあまり詳しくないかもしれません。

しかし、CMそのものは僕は結構好きなのです。


2010年11月16日火曜日

それじゃあバイバイ

今日のブログはごめんなさい、手抜きです。

なんか昨日からものすごい勢いでアクセスが増えてます。いつもの2倍以上のアクセス数です。どうやらpixivニュース経由で見に来てくれる人が増えたみたいです。

ゲイライフっておもしろい [pixiv]

そんな人に紹介できるものがなにかあるかなと思って、考えました。この動画を紹介します。


2010年11月12日金曜日

ゲイライフっておもしろい

ゲイライフって面白い……と最近つくづくそう思うのです。

思春期にはそりゃあつらいことも、それなりにありました。特に地方で育ったことは大きい。あの田舎には本当に何もなかった。たぶん僕はあの田舎町にはもう戻れません。たとえ飢えても、東京だけは離れたくないと心底から思います。


2010年11月11日木曜日

自由化という響きはよいけれど、農業がどうなってもいいと思ってない?

APEC(アジア太平洋経済協力)会議が開催されています。会場は横浜パシフィコ。

地方の警察官たちが大挙して上京しています。要人の警護にあたっているのですね。警備員もナイフ所持で逮捕されたりしたそうです。多くの人の注目が集まっています。


2010年11月7日日曜日

ストレングスファインダーに挑戦してみた

僕は自分のよくないところや弱みについてはたくさんしっているけれど、自分の強みをちゃんと把握できていないなと思っていました。そんななか、自分の才能を知るためのテスト、ストレングスファインダーを使ってみるという方法を知っていたので、それを思い出し、今回、挑戦してみました。


2010年10月27日水曜日

白菜の美味しい季節ですね。吉野家の戦略新商品「牛キムチクッパ」試食会に行ってきました。

白菜はアブラナのなかまです。アブラナ科アブラナ属の二年生植物です。

英語では「Chinese cabbage(チャイニーズ・キャベツ)」といって、その名の通りキャベツの仲間。もとは中国の原産なんですね。

このアブラナ属のなかまの野菜には、実は僕たちに馴染みの深い野菜がいくつもあります。

ミズナ、カブ、小松菜、野沢菜、チンゲン菜、ブロッコリー、カリフラワーなど、実はアブラナ属の野菜。キャベツももちろんそうですし、芽キャベツなんかももちろんそうです。

白菜といえば、思い出すのはやはり鍋です。


2010年10月26日火曜日

手づくりの作品をだすことができる「cooboo(こーぼー)」と、手づくりのくらしをえがいた「椿びより」

「茶柱がたった、なんかいいことありそう――」

先日、リリースされたばかりのあたらしいウェブサービス「cooboo(こーぼー)」。

先日からはじめたフェイスブックで知りました。


2010年10月25日月曜日

宇多田ヒカル本人によるベストアルバム否定騒動におもうこと

Universal Japanから発売が発表された "Utada the best" について、当の宇多田ヒカル本人のtwitterから否定的なコメントが出てきました。話題になっていますね。

2010年10月24日日曜日

今期ドラマの大本命「Q10」を手掛ける「河野と木皿」 

木皿泉という脚本家を、そして、河野英裕というテレビドラマプロデューサーを御存知でしょうか。


2010年10月22日金曜日

ネットユーザーじゃないひととでも分けあえる「共感の楽しみ」

いろんなところにいろんな情報がある。

言葉や映像や画像や音楽や、それらはときに、僕たちにとって思いも掛けない変化をもたらすと思うし、それらはときに僕たちにとってとても大事な、他には代えがたい価値を持つことがあると思います。

けれどそれらは、あまりにも増えている。僕はそう思うのです。インターネットのかつてない普及の速度によって。


東京の夜景を眺めながら一緒に祝杯をあげましょう!

24歳になりました。

これからもがんばっていきます。

ブログの更新頻度も上げたいです。

さて。祝杯というのは僕の誕生日のことじゃなくて。


2010年10月20日水曜日

静かな夜道の中で考えている些末なこと

僕はものすごくインドアな人間だと周囲に思われがちです。

実際、確かにインドアな傾向はあります。インドアじゃなかったらこんなに太ったりしないし。あと、僕はネットオタクみたいに思われていて(まあ別に間違ってないけど)、それがインドアイメージに拍車を掛けるんです。


「今さらだとしても面白い」 ~ フランスのマックのCMってみたことある?

先日書いた記事で、

新しい情報により皆が集中していって、新しい情報の価値があがってくる、みたいなウェブのありかた――みたいな話を書きました。「The Super Fresh Web(超新鮮なウェブ)」とかっていうやつね。

2010年10月13日水曜日

過去の価値を軽んじる未来を Facebook-Google-twitterがつくる世の中へ

いつの話かは明かしませんが、つい最近の話ではなく、しばらく前の話です。僕の大事な友人が、憔悴した怒りと、それをぶつける余地の無さに、ひどく落胆していました。


2010年10月12日火曜日

フェイスブックが面白い! 恋愛対象が入力できるフェイスブック

ふぇいすぶっく。

ずいぶん前に登録だけは済ませていて、今までにも何度か「ちゃんと使えないかなー」といじったりはしていたものの、「どう使っていいかわからん」と放置してしまっていた、このあんちくしょう、フェイスブックくんが最近アツイです!

2010年10月8日金曜日

挑戦する農場・麦わら農場の食べてみたいと思わせる野菜たち

世界の耕作可能面積は37億ヘクタール。

これをすべて穀物にしたら370億人ぶんになります。
すべて牛に食わせてミルクにすると148億人ぶんに。
豚に食わせて、その肉を食用にすると、55.5億人ぶんに。
牛に食わせると、12億人ぶんに。


2010年10月5日火曜日

偽善なんかくそったれ

偽善。

僕は偽善ということばが、あまり好きではありません。有り体に言って、きらいです。

自分の中に、ひとに優しくしよう、ひとのために何かをしようという気持ちが沸き起こったとき。もしくは、ひとの行いに感動したり、何かのできごとや物語に涙をこぼしたりしたとき。

2010年10月4日月曜日

IS03とGALAPAGOS――SHARPがすごい。

赤外線通信対応、高画素カメラ搭載、電子マネー対応、ワンセグ対応、メールもezwebのものがそのまま使える――。

なんてこった!


2010年9月30日木曜日

可食域の拡大

様々な生きものは、モノを食べて生きていますね。

草を食べる動物も、肉を食べる動物もいます。僕は男を食べます。……すみません。いや、今回は純粋にごはんの話です。


2010年9月28日火曜日

多様性から多角性へ

尖閣諸島問題が報じられ、多くのメディアで報じられてからしばらく、僕は自分の考えをまとめきれずにいました。

僕が観測する限りの世論は、中国側の態度を強烈に批判し、さらにその中国に強硬な態度をとらない日本政府の態度を批判するというものが大半。主にTwitterやブログ、ニュースメディアのコメントや2chのまとめなどで、ネットユーザたちの反応を観測していました。

僕は、報道とネット上での世論をウォッチしながら、なんとも言えぬ思いでした。考えていたのは「こんな世論はなにか間違っている」とだけ。

しかし、語気を荒くして中国の態度や日本の対応を諤々と非難する文章に対して、反論するだけの気力もなければ、そもそもそれを「間違っている」と言えるだけの、論理的なバックグラウンドが僕にはありませんでした。

「こんな世論はなにか間違っている」。そう思いつつも、何が間違っているのかを明確に僕は言うことが出来ませんでした。


2010年9月24日金曜日

ドル安がなんとかなるといいんじゃないかなあ。

とりあえず現時点の僕の結論=円が高いのって悪くないんじゃないの。てか、ドルが安いのが問題なんじゃないかな。

なんでそもそも僕が「円高やだなー」って考えていたかというと、いくつか理由があります。


2010年9月20日月曜日

中田ヤスタカの歌詞の世界 ~VOICEは決して甘くない応援ソングだと思う

綺麗事を並べ立てた耳障りの良い応援ソングとは、一線を画す。

VOICEはそんな一曲であると思います。


2010年9月17日金曜日

ボーイズラブを読んでいた。

はじめて男同士の恋愛を描く作品に出会ったとき、そのとき僕は中学生でした。

そのころ、僕の家の前には本屋がありました。本の大好きな少年としてすくすく育っていた僕は、そこへ通いつめていたのです。学校の帰りがけに、かならずといっていいほど、毎日のように。

お気に入りの本棚を物色して、足腰の痛みに耐えながらも姿勢を変えながら、立ち読みにふけっていました。


2010年9月8日水曜日

応援よろしくお願いします。(追記あり)

非モテタイムズというニュースサイトにて、ライターとして活動をはじめることになりました。頑張ってかきますので、応援よろしくお願いします。

最初の記事はこちらです。

「くら寿司問題」から考える消費者・企業・従業員の三角関係 | 非モテタイムズ

人気が出れば、提携しているLivedoorニュースやExciteニュース、pixivニュース、Newswalker、Googleニュースなどへの配信もあるかもしれないので、ぜひ応援してください。


2010年9月6日月曜日

「頑張れ」のかわりにつかえることば

よく言われるのが、うつなど、メンタルが弱っている人には「頑張れ」は禁句だということ。

うつの人でなくても、つらいなかすでに頑張っているひとにむけて「頑張れ」はなんとなく気が引けたりするもの。

じゃあ、友だちが忙しそうなとき、大変そうなときに、自分には声を掛けることしか出来なかったとしたら、なんて声をかけたらいいんだろう?

励ましたいとき、なんて声をかけたらいいんだろう?

そんなときに使える言葉を、個人的にいろいろ集めてみました。ポイントは命令や強制のニュアンスをとりのぞくこと。

2010年8月27日金曜日

月岡芳年の浮世絵から読みとく絵島生島事件の裏側

僕の大好きなドラマに「大奥」があります。

映画の「大奥」も見にいきました。 映画の「大奥」というと、よしながふみ原作・二宮和也&柴咲コウ主演の「大奥」を思い浮かべるかもしれません。

が、今回のブログの記事は、そちらではなく、仲間由紀恵主演の映画「大奥」に関係があります。仲間由紀恵主演の「大奥」で扱われた題材、絵島生島事件のおはなしです。

今日はちょっと歴史な感じの話。

みなさんは月岡芳年という浮世絵師をご存知でしょうか? 日本最後の浮世絵師と言われ、同時に日本最初のイラストレーターとも言われています。

昨年、「ららぽーと豊洲」の「平木浮世絵美術館 UKIYO-е TOKYO」にて、その月岡芳年の名品展が行われました。

「新撰東錦絵と竪二枚続」を副題に掲げて行われたその展覧会。そこで披露された作品のうちのひとつが「新撰東錦絵」シリーズの「生嶋新五郎之話」です。

「新撰東錦絵」は、浮世絵を横に二枚組み合わせた作品のシリーズです。「生嶋新五郎之話」も2枚で1枚の作品。男女が二階桟敷で仲睦まじくしている風景が描かれています。

左と右で2枚の絵からできています

左の絵で胸元をはだけた色男として描かれているのは生嶋新五郎です。

また右の絵で生島に目線を送る姿で描かれているのは江戸城大奥御年寄・絵島です。

そう、実はこの絵「生嶋新五郎之話」は「絵島生島事件」を描いたものなのです。

正徳4年1月12日(1714年2月26日)、七代将軍徳川家継の生母月光院に使えていた絵島たちが、寛永寺・増上寺への代参の帰りに木挽町の芝居小屋・山村座に立ち寄って、桟敷や座元の居宅で遊興し帰城したとして咎められました。

これが絵島生島事件です。

この事件は、疑獄事件であるとも言われていまして、そのために様々な説が存在します。

また、スキャンダル性ゆえに演劇や小説などの芸術娯楽作品の題材にとられることも多い事件としても知られています。

冒頭でお話しした仲間由紀恵主演の「大奥」では、絵島と生嶋新五郎の間に純愛が芽生えていたという設定で描かれています。

この絵島生島事件の語られ方には、いくつかのパターンがあります。

まず、ほぼすべての説に共通して出てくる見解として、

① 当時、月光院や絵島の権勢を好ましく思っていなかった、前将軍家宣の正室天英院派が事件を利用して勢力を挽回しようとした。

というものがあります。これは現在ではほぼ定説となっているようです。

問題は、事件をどこまで天英院派が操っていたのか、という点です。

たとえば、映画「大奥」では、

② 天英院派が生島との密会を積極的に誘導し、月光院派の勢力を削ぐため、意図的に事件を起こして騒ぎを大きくし、絵島を陥れた。

といった内容で、かなりの部分で絵島と生島に対し同情的な描かれ方がなされていました。

また、

③ 絵島が芝居小屋を訪れていたのは事実だとしても、淫行や酒宴などの報告はでっちあげではないか。

などという見解もあります。

この見解は「徳川実紀」の「薄暮に及びてかへりぬ」などといった記述から、酒によって夜遅く帰ったわけではないこと、そのほかいくつか疑わしい記述が存在することから考えられるもののようです。

しかし、「三王外記」ではおおむね次のように書かかれています。

④ 絵島は芝居小屋で酒宴し、江戸城の門限に遅れ、月光院のはからいで問題を一度回避した。しかし、後日の調査で絵島の「淫行」はその一日だけに留まらないことが明らかになり、厳しい処分を受けた。

また、「千代田城大奥」では、以下のようにその「淫行」がさらに派手に描かれており、絵島の処罰は致し方ないものだろうという書き方がなされています。

⑤ 絵島の「淫行」は実に開き直ったもので、酒宴も大騒ぎであった。あろうことか、増上寺から持参した金子までも花代に遣わした。帰城が遅れたことにも悪びれもしていなかった。また、代参に随行した御徒目付らは、この芝居見物や茶屋遊びを内密にしていると後日共犯に問われかねないということを恐れ、若年寄に報告をした。

この説によれば、天英院派の陰謀説はかなり薄いように描かれています。

ただ、実際の史料にも細部に様々な事実の相違があることが指摘されていることから、実際、真相を解き明かすことはかなり難しいようです。

たとえば、「江島実記」によれば「右衛門桜」を興行した際に、新五郎演じる丸橋忠弥が着用した小袖を所望し、その代わりに葵御紋付の小袖を与えたとありますが、伊原青々園の「歌舞伎年表」によれば、その時期の興行は「東海道大名曾我」であることがわかります。

このことより、新五郎の小袖をねだったというのは後日の作なのではないか、との疑いがあるようなのです。

様々な見解を取り上げましたが、多くの創作物などからも①の天英院派対月光院派の権力争いが事件の顛末を大きく動かしていたとする考え方が、ほとんど通説となっているようです。

しかし、天英院派とともに事件を動かした人間たちの狙いは、果たして絵島にばかり集中していたのでしょうか?

ここで、冒頭で取り上げた月岡芳年の浮世絵の名前を思い出してほしいのです。

生嶋新五郎之話」。

多くの史料においてこの事件は「絵島」の事件として語られているのですが、この浮世絵の名前には「生嶋」の名しか入っていないのです。

ここから僕は以下のように考えました。

おそらく民衆の間では、この事件は「生島」の事件であったのではないか、と。

正徳元年(1711年)の「役者大福帳」には、こうあります。

「名物男坂田藤十郎、大和屋甚兵衛、中村七三郎及び嵐三右衛門の四人相果てらるれば今が三津で濡れやつしこの人につづくはなし。濡れの中村七三郎の跡継ぎ、今の名物男は生島新五郎か」

ここから察するに生島の人気役者ぶりは相当なもののようなのです。

となれば、絵島の失墜をもって、月光院派の権力が失われたことの裏を考えるとどうでしょうか。

すなわち、生島をはじめとする山村座関係者への厳罰によって失われたものはなんだろうか、ということです。

幕府はこの事件をきっかけに、芝居道に厳格な制限を課しはじめたのです。

芝居小屋は簡素にし、桟敷は二階三階を作らず一階のみにするように、豪華な衣装は慎むように、演劇は日没までに終えるように、劇場近くに座敷のようなものを備えた茶店を作らぬように。遊興をすることも禁止し、俳優らは桟敷や茶店に招かれても行ってはならない――。

こういった取締りがその後の芝居道に大きな影響を与えたのであろうことは想像に難くありません。わが国演劇史上においても見逃すことのできない事件なのであります。

絵島たちを裁くことになった評定所の関係者たちは、絵島生島事件を利用して、江戸の風俗を取り締まろうとしたのではないでしょうか。

実はこのころ、江戸の風俗に対する取り締まりは非常に多くなっていたのです。

逆に言えばそれだけ、評定所は風俗に頭を悩ませていたのであろうと思われます。

特にこのころの幕府からの御触書には、性風俗や芝居に関するものがいくつもあるようです。

男色の禁止や、赤穂浪士を題材にした芝居の禁止などがお触れとして出されています。

このことから、江戸の性風俗をかねてから懸念していた幕府関係者にとっても、絵島生島事件はある意味好都合となる事件であったのではないかと考えられます。

山村座の取潰しや演劇への取り締まり強化までに至ったのには、「大奥内の権力争い」で済ませられないものがあるとしか考えにくいのです。

性風俗取締を強化したい幕府の人間と月光院派の思惑が一致したということが、もしかしたら重要なファクターだったのではないでしょうか。

それにしてももし月光院派の権力が実際よりもっと強く、それで絵島が無罪になっていれば、当時の文化がより色濃く現代にも伝わっていたかもしれません。

浮世絵の生島を見ても、胸をはだけさせてずいぶん男の色香がありますね。ああいった色香が現代に伝わらなかったのは実にもったいないように思います。

注)ブログ中に「絵島」「江島」および「生島」「生嶋」の表記のゆれが見られますが、誤りではありません。一般的な表記に従い、「絵島」と「生島」を採用しましたが、史料からの引用や書名等については、原文にしたがいました。なお、「江島」のほうが正確な表記だとされています。

ところで、よしながふみの「大奥」のコミックのほうでも、絵島生島事件は扱われるっぽいですね。

やっぱり陰謀な感じでいくのかな?



参考資料

山本博文『大奥学事始め―女のネットワークと力』(日本放送出版協会、二〇〇八年)
楠木誠一郎『江戸の御触書―生類憐みの令から人相書まで』(グラフ社、二〇〇八年)
山本博文『将軍と大奥 江戸城の「事件と暮らし」』(小学館、二〇〇七年)
高柳金芳『生活史叢書7 江戸城大奥の生活』(雄山閣出版、一九七〇年)
浅野妙子『大奥―OH!OKU』(角川書店、二〇〇六年)
船橋聖一『絵島生島』(新潮社、二〇〇七年)
重松一義『絵島高遠流罪始末』(日本行刑史研究会、一九七六年)
塩見鮮一郎『乞胸 : 江戸の辻芸人』(河出書房新社、二〇〇六年)
八文舎自笑、梅枝軒泊鴬『役者大福帳 京・大坂、江戸之巻』(大共同刊行、一八三一年)

2010年8月23日月曜日

モノに支払うカネ ヒトに支払うキモチ

勝間和代さんの影響なんかがずいぶん大きいと思うのですが、ここのところデフレが経済問題としてそこかしこで大きく語られています。

デフレってどういうことか。シンプルに言えば、モノよりもカネがありがたがられるってことですね。

で、この「モノ」にはなにが含まれているかというと、僕らの労働力なども含まれているわけです。企業は労働者からモノとしての労働力を買っているんですね。

ヒトをモノあつかいするな! という声が聞こえてきそうですが、僕は、ヒトをモノあつかいすることそのものは悪だと思っていません。

モノは「者」とも変換できます。「モノ」の概念にはヒトがある程度含まれているんじゃないかと僕は考えています。

分かりやすいところで言うと、コンビニやファーストフードショップで、ヒトは明らかにモノになっていると僕は思うのです。店員さんがヒト扱いされていないということだけではなく、お客さんもモノになっている。

もちろんそういう場でも、ヒト対ヒトのコミュニケーションが生まれることが皆無だとはいいません。コンビニの店員さんに道案内してもらったりとかね。

しかし、基本的には、お互いがモノという「てい」にしておくことで、やりとりが円滑になっています。

このなかでやりとりを円滑にする原則は「お互い」を「モノ」にしてしまうことです。

もし、一回一回の買い物の中でどちらかが相手をヒトだと思っていたら、あれほどぞんざいなやりとりに耐えられるわけがないんです。だからお互いを、ある程度の部分モノだってことにしてやりとりをすることで、うまくいく。

僕にとって店員さんはだいたいほとんどモノ。逆に店員さんからみた僕は、それよりももうちょっと、モノだろうな、と思います。

やりとりがうまくいかないケースは、だいたいその原則に不一致が起きていると思うのです。

コンビニ店員さんも、実際はヒトであるわけだから、ミスをするのは当然だし、コンピュータのような正確さはありません。

たとえばコンビニの店員さんが、列をうまくさばけなかったりするかもしれません。商品を手違いでだめにしてしまうかもしれません。急いでいるのに、トラブルで会計が遅れてしまうかもしれません。

その「ヒト」のミスに対して「ちょっと顔をしかめたりする」程度のことであれば、まあ、ある程度バランスがとれています。

「申し訳ありあせん」のヒトコトで、「ああ、コンビニの店員さんって大変そうだな」と気を許すのです。

それはそのとき、お互いに「実際はヒトだ」という認識が共有されるからです。その一瞬だけ、お互いがモノからヒトにもどるわけです。

このとき、お客さんの方だけが自分はヒトのつもりで、相手をモノだと思い続けていると、このバランスが崩れます。

「しょせん自動販売機ふぜいが、しょうもないミスしやがって!」という、モノに対するお客さんの怒りが炸裂するわけです。

ヒトとモノのバランスが崩れる、典型的なパターンです。

しかし、前述したように、こういうトラブルがあるからといって、ヒトをモノとしてとらえることを即悪だとするのは違うと僕は思います。

たとえば、人件費といういいかたに反発する人がいます。人件費をコストだとするなと。支払う僕たちをヒトとして扱えと。

感情的には共感できないこともないのですが、僕はやはり人件費という言いかたは適切だと思います。ヒトをコストだとしてとらえるしくみは、ありだとおもいます。「それでうまくいっていることがあるのだ」と思います。

それは、僕たちが、僕たちの給料を支払っている会社を「モノ」だと思っているからです。僕たちの多くが、会社を、働いたらおカネがそこから出てくる「モノ」だと思っています。

会社が僕たちをモノだと思うのと同じように、僕たちが会社をモノだと思っているとき、その金銭の支払いは円滑にうまくゆくのです。

けれど、実際には、働く僕たちがヒトであるように、僕たちに給与を支払うのもまた、ヒトです。そのおカネはヒトの手をわたって僕たちに届きます。

お客さんから渡されたオカネはレジにはいって、経営者というヒトや会計の担当というヒトが決めたしくみを流れて、給与の支払い担当のヒトが銀行のヒトに手続きをして、ようやく僕らの最寄のATMからおカネが引き出せます。

僕たちは、お給料をもらうときに、僕たちの労働からお給料がうまれるまでの過程にいるヒトをあんまり想像したりしません。そこではそのヒトたちの存在は無視されて、「会社というモノ」というざっくりとした認識です。

たぶん、働くなかで関係したお客さんや同僚や上司や部下だけがヒトであって、それ以外の「給料を僕たちに届けるしくみ」は「会社というモノ」なのです。

どうでしょうか?

ヒトをモノ扱いすることは、お互いにモノ扱いするときには有効なのです。

さて、問題は、デフレです。

モノよりもカネがありがたがられる。日常の中でこれだけ頻繁にモノになったりしている僕たちにとっては、これは大問題です。

モノがありがたがられるようになるには、どうしたらよいのでしょうか?

「モノ」がよりありがたがられるように努力する、のもその方法のひとつ。

ひとりひとりに最適な接客を産み出して、接客というありがたい「モノ」を豊かにすること。新しい技術を開発して、僕らの生活を豊かにするありがたい「モノ」をうみだすこと。

でも、それだけでは、僕は足りないんじゃないかなと思っています。いえ、むしろそれだけでは逆効果にもなります。そうすることで、いろんなモノが「ありがたく」なくなってしまうから。

デフレを解決するにはどうすればいいのか。シンプルには答えを書けませんし、僕にはそんな適切な解決方法を論じる有能さも欠けていると思います。

けれど、僕はあえてひとことでいうなら大切なのは「支払うキモチを育てること」だと思います。キーワードは「想像力」です。

結局精神論かよ、と思われそうですが。

2010年8月18日水曜日

タカナシの低温殺菌牛乳がおいしい件。

あずまきよひこの「よつばと!」という漫画が好きで、暇なときなんか、わりとなんども読み返したりしています。よつばという名前の女の子を中心に、子どもの愛らしさとか日常のあたたかさみたいなものを描いている漫画です。

で、この、よつばが好きなもののひとつに「牛乳」があります。牧場に乳しぼり体験しにいったりするシーンもあります。よつばの父ちゃんは、通販なんかを使ってちょっと高めな「おいしい牛乳」を買っていて、お隣さんにもおすそわけしたりしています。


牧場にいく7巻。
あずま きよひこ
メディアワークス
発売日:2007-09-27


で、この漫画を読んでいると、飲みたくなるんですよねー。おいしい牛乳が。

僕の日用品お買いものエリアは基本的に、スーパーと百円ローソンとドンキホーテ。パスタやオイルみたいな輸入物食材はドンキで購入し、特売の生鮮食品もろもろはスーパーで購入し、そしてあとはほとんど百円ローソンです。

なので、ほとんどの飲料は百円ローソンだったりするのですが、最近は牛乳だけは別なんです。百円ローソンに置いてある牛乳って、確かに安いのですが、低脂肪乳で正直あんまり美味しくないのです。ちゃんと飲みきれなかったりして、安物買いの銭失いになることもしばしば。

そこでスーパーの牛乳をいろいろと試して飲んでみたなかで「これは美味しい!」と、すっかり気に入ってしまって、わりとヘビーユーザーになっている牛乳があります。

これ。


タカナシの低温殺菌牛乳。

いやほんとに美味しい。僕がいままで美味しくない牛乳を飲んでいたせいもあるのかもしれませんが、この牛乳がほんとに美味しいんです。

美味しい牛乳だというと、濃い味の濃厚なミルクなんかを想像するような人も多いと思うんですが、この牛乳は逆で、めっちゃすっきりしてるんです。後味がさわやかで、口の中に残る感じとかがほとんどしません。だから結構ごくごくと飲めてしまうのです。

牛乳って、別に嫌いだったというわけじゃないのですが、今まではなんか「あえて飲みたい」という飲み物ではなかったんですよね。コーヒーにいれたり、ココアやラテみたいな感じで牛乳を使うことはあっても、牛乳そのままで飲むのは、特に好きじゃありませんでした。

もしかしたら、給食のイメージが強かったのかもしれません。毎日毎日同じ牛乳を飲んでいたので、子どものころから「あえて飲みたい飲み物」っていうイメージが、牛乳にはぜんぜんなかったんですよね。

ほんとちょっと高めではあるんですけど、このタカナシの低温殺菌牛乳はおすすめです。

なんか今日、ちょっと広告みたいな記事なんですけど、ぜんぜんタカナシのまわしものとかじゃないので安心してください(笑)

分散の退屈(⇔集中の熱狂)

僕はあまねくギャンブルには、ほとんど手を出したことがなかったりします。

パチンコもしたことがないし、競馬も麻雀も知りません。それらに手を出したことがないのは、別にギャンブル的な行為が嫌いだということではなくて、それらの遊戯そのものがあまり面白そうに見えなかったということが大きいです。

馬のレースにも、パチンコ玉のガチャガチャうごくのにも、正直なところそんなに興味が持てません。そのうえ、胴元があんなに儲かっている様子や、新機種の投入コストや競走馬の育成コストを考えると「勝率ものすごく低いんだろうなあ……」と冷めてしまって、手を出せないのです。パチンコ店はとにかくうるさそうだし、競馬場もなんだか億劫です。

唯一、麻雀なんかは面白そうかもと思っているのですが、残念ながら、今まで一度も麻雀に誘われたことがありませんでした。ルールも知らないし。

ギャンブルに手を出したことがない――とはいえ、僕は賭けごとがとても熱狂的で楽しいものであることを否定しません。むしろ僕自身は、本来的には相当賭けごと好きな人間だと思います。

リスクをとって、リターンを得る。これ、賭けごとの原則です。

この原則というのは、金銭や物品をかけた賭博行為に限らず、生きているなかで起こりうるさまざまな「選択」にも関わってきます。

人生の中で起こりうる「選択」の賭けごとは、そのときどきによって、リスクとリターンのなかみは変わります。いつもいつも金銭というわけではありません。

たとえば勉強であれば、「時間」を投資するというリスクをとって、「学習効果」というリターンを得ることができます。なにかに時間をかけるということは、実は賭けごと的な性質をもっているんですね。

この「時間をかける」という行為を、一種の投資行動として考えてみたときに、僕が思い出すのは「分散」というキーワードです。

投資の手法には「分散投資」という手法があります。その名の通り、複数の金融商品に自己資金を分散して投資する行為です。ひとつのものだけに集中して投資を行うと、なんらかの要因で投資対象の価値が急激に下落してしまったときに、甚大なダメージをこうむってしまうので、リスクを分散させるために行われます。

そしてこれは確かに効果的なやり方であると僕は思います。

これを「時間やエネルギーの投資」で例えてみます。リターンはおおざっぱに「幸福感」で考えることにします。

僕らが「時間やエネルギーをかける」対象はなにがあるでしょうか。ざっくりと思いつくだけでも、恋愛、仕事、趣味、友人関係……といったようにいくつかあります。

いずれかの対象に、自分の持てる時間やエネルギーを集中投資したらどうなるでしょうか。

もちろん、うまくいくときもあります。恋愛に自分の時間やエネルギーをたっぷりとついやして幸福感を得ることができたり、仕事に時間やエネルギーをたっぷりとついやして幸福感を得られることもあると思います。

しかし、恋人とうまくいかなかったとき、仕事がうまくいかなったとき、そのときに受けるダメージは甚大なものです。もしもこのとき、他のものにもちゃんと時間やエネルギーをかけていたら、そのダメージを軽減することができます。友人関係にもちゃんと時間とエネルギーをかけていたら、失恋のダメージを軽減することができるでしょう。趣味にもちゃんと時間とエネルギーをかけていたら、仕事のやりがいをうしなってしまったときも、新しい自分の生きかたを模索するのに役立つと思います。

こういった考え方を踏まえると、確かに、分散という行為は確かに合理的であるように思えます。

けれど……、僕は、熱狂的な賭けごとの魅力って、あると思うのです。

複数のものに複数の賭けかたをするのではなくて、自分がこれだと思うやりかたに集中して、熱狂的に投資するということの魅力って、なかなか他のなにものにも代えがたいものです。

仕事に熱狂して打ち込むとか、恋愛に全力投球するとか、そういうことで得られるものの喜びって、たぶん、分散してそれぞれから得たリターンの総和よりも、すごく大きいものだろうと思うのです。

おおきいリスクをとる行為なので、リターンがおおきいというのも自然な話です。

リスクをとるということは、自己責任をとるということ。リターンというのはかえってくるもの。かえってくるものに対応する力が、責任(Responsibility=対応可能性)というものです。

以前に書いた、対応可能性を育てるということの話ともつながる話ですが、僕が対応可能性を育てたいと思うのは、すなわち、もっと大きな博打が張れるようになりたいということなのかもしれません。

最近の僕はわりと集中投資を避けながら生活しています。

大事なモノを複数もっていて、それぞれにそれなりにエネルギーや時間をかけています。ブログだってそのひとつ。

けれど、最近、何か熱狂的なものが足りないなと感じてきました。コレだ!と思えるような、熱狂的に集中投資しようと思えるなにかが欲しい、ちょっといまの僕は、そんな感じです。頑張って、責任取れる男になるので。

2010年8月17日火曜日

かもめ食堂からまなぶベンチャー精神

僕の好きな映画に「かもめ食堂」という映画があります。監督は荻上直子さん。

僕がこの監督をはじめてしったのは、ぴあフィルムフェスティバルの「バーバー吉野」のときでした。その監督が新作を撮った、しかもこのメンツ(小林聡美、片桐はいり、もたいまさこ)で撮ったというので、公開初日に、いそいそとひとりで観にゆきました。

「かもめ食堂」が好きな僕は、もちろん「すいか」も好きで「セクシーボイスアンドロボ」も好きで……という話も出来るのですが、今日はこの「かもめ食堂」の話。

この映画「かもめ食堂」は北欧のフィンランドのヘルシンキを舞台に食堂を開く女性のおはなしです。素敵な風景や音楽や自然や美味しい食べ物、ゆったりと流れる時間や空間、とても心地の良さそうないきいきとした暮らしを描いています。

この映画では、あんまり主人公が苦労している様子とか、そういうところってあんまり描かれません。それをリアリティの欠如みたいな言い方で批判する人もいるのかなあ、なんて考えたりもするのですが、僕はそうは考えていません。この主人公の力強い自由さ、心の余地の大きさ、そういったものが、この映画に、常に豊かな幸福感をまとわせているのだなあと僕は思います。

このかもめ食堂って、実は相当なチャレンジャー企業なんですよね。日本のソウルフード・おにぎりという製品を、フィンランドで展開している、いうなればベンチャー企業なわけです。豚のしょうが焼きなんかも出しています。

日本ではほとんど教材もないようなフィンランド語を勉強し(実は、僕はフィンランド語学習に手を出したことがあるのですが、まるで歯が立ちませんでした)、店舗を契約し、飲食業を開業する――映画ではその主人公の強いバイタリティは積極的には描かれていませんが、それを僕は以下のセリフに垣間見ることが出来ました。

「毎日 まじめにやってれば、そのうちお客さんも来るようになりますよ。それでも だめなら その時はその時。やめちゃいます。でも大丈夫。」

ね。すごいでしょう。

美味しいものをたべて、笑顔でしゃんとして、人を受け入れる余地を広げていく――。僕はこれって並大抵のことでできるようなことじゃないと思うんですね。

かもめ食堂のスタンスは「フツーのものを、きちんとつくる」。

もちろんフィクションなので「実際にはこんなうまくなんかいかないよ」なんて批判もあるだろうとは思うのですが、何かしらふっくらとした希望のようなものを与えてくれる作品だなあと僕は感じました。

荻上直子
バップ
発売日:2006-09-27

その荻上直子監督は、最新作の『トイレット』を今月、8月28日に公開する予定だそうです。かもめ食堂にも出演している、もたいまさこさんが出演するみたいです。

プライドパレードお疲れさま&Googleの協賛ステッカーが超かわいい件。

今日は東京プライドパレードの話。久しぶりのブログ更新です。

僕はWoopraというわりと詳細なアクセス解析を使っているのですが、更新していないあいだにアクセスがあるのは、それなりに心が痛むものですね。日記であれば書くことはそれなりにあるのですが、僕の場合それはTwitterに流してしまうんで、うっかり更新が滞っておりました。

そのTwitterで僕をフォローのかたがたは御存知のように、先週末は東京プライドパレードを出来たばかりの彼氏くんと一緒に練り歩かせていただきました。

ほんとうに多くの人達が沿道から手を振り、声をかけ、歩いている僕たちを歓迎してくれました。突然の騒がしい行進に反感を覚えてもよさそうなのに、たまたまそこにいた通行人の人たちからも、一緒に笑顔で手を振ってくれたり、といったアクションをもらえました。

沿道から見守ってくれた僕の友人たちからも、「まさひろー、わかれろー!」「リア充は氏ねー!」「ホモのくせになまいきだー!」といったような ”たいへんあたたかい声援” を浴びつつ、無事に渋谷~原宿の街を、ふたりで手をつないで歩ききりましたっ。

本当にいい思い出を作れました。結構な距離を歩いたはずなのに、ほんとうにあっという間でした。

パレードの実行委員会のひとたち、ほんとうにありがとうございました。これだけの規模のパレードを企画し、実行までこぎつけるには、本当に多大な労力と時間がかかるだろうと想像にかたくありません。いやほんとすごいですよ。

ごみ捨て場や救護のテントといったような、パレードのはなやかなところから離れたようなところでも、地道ながら笑顔でいきいきと作業をしていたスタッフさんたち、ほんとうに素敵なイベントをありがとうございました。

いやもう普通にめっちゃ楽しいお祭でした。焼きそばもたこ焼きも食べたし、久しぶりにあうような友だちにも何人か再会できました。

ところで、このプライドパレードに協賛したいくつかの企業の話。

同性愛者に向けた家族割引を提供しているソフトバンクは、ブースの出店だけでなく、パレードの通りにある表参道店の入り口にレインボーフラッグを掲げて歓迎するなど、いつもながら大変嬉しいアクションを用意してくれました。ソフトバンクのLGBTにフレンドリーな姿勢については、以前にも記事にしたとおりです。

そのほかでは、まず、個人的にたいへん印象深かったのは、僕の愛してやまない企業であるGoogleの協賛でした。

Googleは、同性愛者のための様々な施策を行っている企業のひとつです。婚姻関係にない同棲パートナーをもつ同性愛者にむけて、医療保険等に置いて婚姻カップルが受けることのできる税控除と同等の給与アップを実施したりしています。つまり、同性愛者カップルと婚姻カップルのあいだにある納税格差を埋めてるってワケ。すてき!

今回、そのGoogleがパレードに向けて用意した、Androidのキャラクターステッカーが、これ!!

今回、Googleが用意したステッカー。このふたり、同じかたちだから同性愛者の設定なのかもー。

か、かわいい……!!!

いつか日本で「これだ!」と思えるようなAndroidマシンを手に入れることができたら、そのときはこいつを貼って使いたいですねー!

ていうか、ググってたらこんなツイート見つけて、Tシャツ売ってたのかー!と今更気づいたりしました。僕がいったときにはもうなかったかも……。


俺も欲しかった……。

ところで、Googleは仮想通貨プラットフォームを買収し、AppleはNFCの専門家を採用してこれにからんだ特許を続々と申請しているようで。

電子マネーに仮想通貨、これから競争が加速しそうですねえ。

2010年8月6日金曜日

nanapiワークスで記事を書いています。

nanapiというHow toを集めたウェブサービスがあるのですが、そのnanapiが先日はじめたばかりのnanapiワークスというウェブサービスを利用して、いくつか記事をかかせていただきました。

プロのライターさんから見れば原稿料は非常に安いのですが、アマチュアのブロガーでしかないような僕からみると、非常に魅力的なシステムです。

普段ブログに文章を書いても、入るのか入らないのかわからないようなアフィリエイト収入くらいしか期待できないのに対して、nanapiワークスに記事を書くと、記事一本あたり数百円の収入とアクセス数に応じたボーナスをもらえます。

個人的に魅力なのは、書いた記事に対して、ちゃんと編集部からの添削やコメントがもらえるということですね。編集部が添削を行って、記事に対する評価もABCで付けてもらえます。ライターとしてのスキルアップを考えているかたには、僕はおすすめできると思います。

以下、いままでnanapiワークスから書いた記事のリストです。


これからもちょくちょく書いていくと思います。よかったらアクセスして、「いいね!」の評価をつけてください。よろしくお願いしまーす。

2010年8月3日火曜日

僕たちの中の小さな神様、対応可能性を育てるということ

いま、僕は自分を何とか出来ている、と思っているけれど。

でも、世の中ってしんどい。まじしんどい。そう思いません?

友だちとご飯を食べたり、好きな人と好きあうことが出来たり、幸福なときもたくさんあるんですけど、でも、不幸が多すぎる。なんか僕の周りには苦しさに追われてる人が多い気がするのです。僕にはそれをどうにかするだけの財力も知恵も余裕もなんにもなくて、僕自分ひとりだってどうにかするのに精一杯で(どうにかなってるわけじゃないけど)、そんな「どうにかする」なんてだいそれたことかもしれないけれど、でもやっぱり歯がゆい時がいっぱいあります。

舞城王太郎じゃないけど、なんでもっとみんな幸せになれないんだ。僕のまわりにいるすべてのひとが、おいしいものが食べられて、ぐっすり眠れて、あたたかい場所で、あるいは涼しい場所で、すきな人たちと笑顔で、ほがらかにおだやかに過ごせればいいのにって本気で思います。

神様がいると思っているわけではないんですけど、もしこの世に全知全能の神様がいるとしたなら、ものすごく残酷ですよね。そんなやつを信仰するなんて俺には無理。今日食べるものに苦しんでいる子どもとか、育児に疲れて気が狂いそうになっている若い母親とか、いじめられて孤立して死ぬことばっかり想像してる中学生とか、仕事におわれながら自分の価値を見いだせずに苦しんで自己否定のスパイラルに陥ってる末端の労働者とか、そういうのもうぜんぶひっくるめて救いやがれ。話はそれからだ。とか思うのです。

僕の知る限り神様なんてのはいません。

ただ、苦しさを癒すものが神様ならば。そしてヤオヨロズの神と言わんばかりに、あらゆるところに神がおわしますのならば。もしかしたら、神様かもしれないと思う「なにか」にはたまに出会っている気がします。

それは、つらいときに一緒に寄り添ってくれる親友たちであり、僕を必要としてくれる職場のひとたちであり、家族であり、恋人であり、二丁目のママたちや一緒に活動する仲間たちであり――そういう、僕と関わってくれて、一緒に楽しい時を分かち合ってくれる人たち。さらに言ってしまえば、美味しいご飯をつくってくれるお店の人や、着心地のいい服をつくってくれる洋服屋さんや、友だちとの会話を楽しめる楽しめるカフェだってそう。

要は結局僕たち自身が神様になってるわけだ、と思う。

で、本題。

いまchikirinの日記を発端に、23歳のシングルマザーが二人の子どもを死なせてしまった事件が、多くのネットユーザーたちのあいだで話題になっています。

子どもの貧困、子どもを抱えることの貧困。

僕の言うこの貧困っていうのは、ただ単に、お金がなくて苦しいということだけではなくて、友人関係をはじめとするあらゆる社会的なつながりの豊かさが損なわれていることも指します。

いまこの国では、子どもを抱えることが、貧困につながってしまう。子どもでいることが、貧困につながってしまう。

僕は、多くの人は、ある程度、自己責任で生きるほうがいいと思う人間です。

それは、決して人に厳しいということではなくて、むしろ逆。

人は自分で責任をとって、リスクを取って生きる方が、より幸せになれると思うのです。

人付き合いでも、仕事でも、なんでも、自分の中に責任を設定すること。責任は英語ではresponsibilityだけど、つまるところ「対応可能性」。自分の行動の結果、いいことが返ってきても、わるいことか返ってきても、それを受け止める、そういう余地を増やしていく。それが自分で責任を負えるようになっていくということ。ひいてはオトナになるということ。

けれど、自己責任をとらせてはいけない、そういうセグメントは確実にあります。

社会で、ひとりひとりが、この手の届く距離で、余地があるときだけ、八百万ぶんのいちの神様を演じて、支えなければ、というところが確実にあります。それは自分の中に「対応可能性」がちゃんと育っていない人たち。対応しきれないものを抱えてしまった人たち。

たとえば、病気を抱えた人。

たとえば、子ども。

たとえば、シングルマザー。

彼ら彼女らの責任を、社会が、つまりは僕たちが、あなたたちが、担うことが大切だと思う。対応可能性をもつことが大事だと思うのです。

責任をもつ力とは、かえってくるいいことも、わるいことも、受け止める、そういう力です。

僕はそれを、八百万ぶんの一の神様みたいなものだと思う。


僕の親しい友人である中村うさぎさんが、シングルマザーとゲイのあいだでのかけはしをつくるネットワークについて、呼びかけをしていました。

ゲイは子どもを産めません。けれど、そのことで、子どもに対してどのように関わっていくかということを、考えていきたいと思っているゲイは意外と多くいると思います。

シングルマザーの気持ちは、たぶん僕にはなかなか分からないと思う。けれど、ノンケ男と分かちあえないようなことが、彼女たちにあるのなら、もしかしたらゲイは、彼女たちにとって、ひとつの豊かなつながりになれるのかもしれない、とも思います。

多様な家族のかたちの大切さを、知っている人も多いから。


阿部 彩
岩波書店
発売日:2008-11

2010年7月31日土曜日

じぶんに似合っていれば、それでいい。気持ちいい。

よくゲイ、というか、セクシャルマイノリティたちの人たちの言葉の中には「多様性」ってことばが出てきます。僕はこの多様性を尊重したいと思うし、まあ、それなりに出来ているつもりなんですけれど、最近これについて思うことがあります。

ゲイ、バイセクシャル、レズビアン、ノンケ――みたいな性的なくくりに限らず、金持ち、貧乏人、社長、平社員、フリーター、イケメン、美女、ブサイク、デブ、眼鏡、オタク、女装、そのほかあれやこれや――。みんなそれぞれ、色んな個性を身にまとってる。そんななかでいったい何が大事なんだろうって考えたとき、「似合ってるかどうか」なんじゃないかなって思うことがあるんです。

そして、その「似合ってる」っていうのは人の価値観で決めるんじゃなくって、自分の価値観で決めるものかなあと思うんです。これがたぶん、似合っていないとつらい。

僕はいま周囲にオープンにしているゲイなんですけど、こういう振る舞いが自分にとっても似合ってるって思ってます。あと、僕はデブなんだけど、デブだって言うのはネタにしちゃうのが僕には似合ってるのかな、なんて最近思っています。

いろんな振舞い方があって、それがちゃんと自分に似合っていれば、とっても気持ちいい。それが、最近僕が分かってきたことです。こうやってブログを書くのも、ようやく最近僕にも似合ってきたんじゃないかなあって思っています。

好きなことをして生きればいい、というのはまったくそのとおりだと思うんですけど、そしたら、好きなことをしているその振る舞いが自分に似合うように、模索していくのがいいと思うんです。

そして「似合う」っていうのは、「慣れ」でもあります。ので、繰り返し続けていくことで、似合うっていうこともあります。最初は似合わないかもしれないなって思うことにも、チャレンジしてみて、それを「着こなせる」ようになると、とっても気持ちいいです。着こなさなさそうだったら、方向転換です。

僕の友だちに桃井アロムっていう女装がいて、最近、やたらブログで彼氏の話ばっかりしています。それまでは不幸女装みたいなキャラで売ってたので、彼氏ができたらきっとつまらない女装になっちゃう、みたいなことを当初は言ってたんですが、最近はすっかりキャラチェンジに成功した感じです。純男彼氏持ちの女装、っていうのが、なんか似合ってきちゃってるんですよね。

2010年7月27日火曜日

つくることをになえなければ、パイは分けられない

音楽にしても、文章にしても、そう。電子出版や音楽業界の動きを見ていると、結局はこういうことなんではないかと思うのです。もはや繰り返しなんども語られていることなのですが、ちょっと自分の認識をシンプルにまとめておきたいと思います。

インターネットを通じてプロアマ問わずに表現できるようになったことで、参入障壁がさがり、人々の時間を奪い合う競争が加速しました。通信によるコンテンツ配給の合理性が人々の間で認められ、パッケージの価値が暴落しました。これらの結果として、文章や音楽の販売によるビジネスのパイは減少しました。

ビジネスのパイが大きかった頃は、文章や音楽をつくるひとたちに、くっついて仕事をすることが、ある程度認められていました。しかし、これからそういうわけにはいかなくなってくるでしょう。彼らつくり手たちから、分けてもらえるお仕事は減る一方です。つくることを担える人にならなければ、自分でつくりだしていかなければ、パイを食むことはできなくなっていきます。

作家による電子出版、ミュージシャンによるインターネットライブ。これからますます、コンテンツビジネスは、自分で産み出すひとたちだけのものになっていく。

それがいいかわるいかではなくて、たぶん、ただそうなのだろうなと、思います。

2010年7月26日月曜日

借りぐらしのアリエッティ・評(ネタバレなし) 現実から価値を引き出す力、覗き込めば世界は広くなる

先日、仲良しのゲイ友だち3人組で、「借りぐらしのアリエッティ」を観てきました。僕としては、たいへんに「もったいない」感の残る作品でした。

以下、特にネタバレはありませんので、鑑賞前に読んでいただいても大丈夫だと思います。先入観を持つことの良さも悪さもあると思います。

未見の方は、ご自分の判断で続きをお読みになってください。

借りぐらしのアリエッティは、床下の小人という架空の存在を描いたという点でファンタジーです。ファンタジーといえばジブリのお得意とするところ。いままでにもたくさんの夢ある物語を提供してくれたスタジオジブリ。僕はその夢のようなファンタジーを期待してこの作品に臨みました。

しかし、実は、まず、そこがこの作品の大きな罠なのです。架空の小人たちの不思議なファンタジー世界を描いた作品――かと思いきや、違う。確かに小人という存在はファンタジーですし、そのこびとたちの暮らしを描いてはいます。しかし、この作品についてはこのように言い換えるのがよろしいかと思います。

これは「小人の目線を通して、卑近な現実世界を覗き込んで描いた作品」です。

だから、ちょっと一般的な「ファンタジー」としては捉えにくいところがあるのです。

先日の記事でも引用しましたが、スタジオジブリ発行の小冊子「熱風」のなかで、iPadを利用して情報収集をするというインタビュアーを、痛烈に批判しました。

あなたの人権を無視するようですが、あなたには調べられません。なぜなら、安宅型軍船の雰囲気や、そこで汗まみれに櫓(やぐら)を押し続ける男達への感心も共感もあなたには無縁だからです。世界に対して、自分で出かけていって想像力を注ぎ込むことをしないで、上前だけをはねる道具としてiナントカを握りしめ、さすっているだけだからです。

宮崎駿がここで批判したのは、現実から価値を引き出す「つくりだす力」のなさ、だと僕は捉えました。

みずみずしく雨をはじく大地。葉脈をたぎらせる草花。生い茂るツタ。光りを反射してつややかなダンゴムシのねずみ色。床下の薄暗さや、尖ったまち針のなめらかさ。窓ガラスの鍵の、こすれた反動の力加減。ローリエや紫蘇の香りの芳醇さ、両面テープの粘着するノリの引き具合、水滴ひとつぶひとつぶの豊かさ。

自分の目を通してアクセス出来る、その現実をもっと覗き込んで、その現実に対してもっと出かけていって、そこから何かを得ようとしない――現代人の「なまけ」を意識させられるような、「借りぐらしのアリエッティ」はそんな作品です。

確かに、インターネットも未知の世界に出かけていくツールではあるのですが、いま、僕たちにとって、そのツールはあまりにも使いやすすぎるのです。それを扱えたくらいで手に入れた世界で、たぶん僕たちは、満足してはいかんのです。

インターネットからはおそらく遮断されている、郊外の古い屋敷、という設定もそこを強く感じさせますね。ここには、自分の足でしか、出かけられない。

グラフィックが綺麗すぎ。多分、無限×無限ピクセルで、毎秒無限フレームで動いてる。色も多分無限色使える。夕焼けとかマジありえねー美しさ。

人生は神ゲーだ http://anond.hatelabo.jp/20070303100408

僕はこのアニメを見ていて、この一文を思い出しました。

だからこそ、この作品が残念なのは、その精細な世界をダイナミックに描くことに、ところどころ失敗してしまっている点です。

角砂糖、ダンゴムシ、てんとう虫、まち針、ティッシュ、人の手のひら、猫の鼻――

どう考えても縮尺がおかしいだろう!!!!

特に残念な点は、もうほんとうに、この上記の一点につきます。

それから――僕には、アリエッティと主人公少年との交流の話が、何を言いたいのか、いまいちよく分かりませんでした。

もし、こういう意味のある物語なんだよ、という解説をできるひとがいたら、ぜひ教えてください。

2010年7月25日日曜日

協力して買い物、という文化を。グルーポン系サービスの未来。

ひとと一緒に暮すことのメリットはたくさんあると思います。そのひとつに、生活費が安くなる、ということがありますよね。

まず、一人暮らしだと、なんでもひとりのためにモノを買わなくちゃいけない。

けれど、ふたりで暮らすなら、ふたりでひとつ、っていう買い物ができます。冷蔵庫は、ひとつでいい。扇風機も、ひとつでいい。

でも、実は、ふたつ買うときだって、安くなる。ひとりぶんをそれぞれが買うよりも、ふたりぶんを一緒に買ったほうが安くなるんです。お店にしても、そうやって、家族や恋人単位で買い物に来てもらったほうが、嬉しいから、安くします。

ゲイのふたり暮らしを描いた ”きのう何食べた?” は、僕の愛してやまない漫画のひとつです。この漫画の「すいかを半分こ」する話が、僕、すごく好きなんですね。

すいかがすごーく安く売られてるんだけど、ひと玉買うにはちょっと大きすぎる。そんなとき、同じようにして、すいかを見つめるおばさんに出くわす、主人公の筧さん。迷って、他の買い物を済ませて、そしてまたすいか売り場に戻ったら、またその同じおばさんにばったり。そこで思い切って、「一緒にこのすいか買いませんか?」って持ちかけるんです。

↑この1巻に入ってる話。
よしなが ふみ
講談社
発売日:2007-11-22

こういう光景が、もっと日本のあちこちで見られればいいのになあ……と思います。

よく東京の人は冷たい、なんて言うでしょう。地域でのつながりがすくないって。近くにいても、みんなお互いを無視しあってるって。それはでも、別に冷たいからじゃなくて、思いやりもあるんですよね。お互いを尊重してるからこそ、近くにいるっていうだけの関係性くらいじゃ、いきなり関わろうとしない。隣り合っただけの人とお喋りを始めたりなんかしない。それは、そうすることがお互いに心地の良いことだって、思いやってるからだと思うんです。

けれど、そうじゃない、シチュエーションがあります。電車で隣に座った人には話しかけなくても、バーで隣に座った人には話しかけますよね。それは、お互いにコミュニケーションをとることが、心地いい場所だってことが分かってるからです。

この「すいか半分こ」は、奇跡的に、筧さんと出くわしたおばさんとが、ふたりとも「お互いにメリットがある!」って気づけたから起きた話なんです。

けれど、これが、奇跡じゃなくなったら、いいと思いませんか。もっと日常的に、一緒に同じものを買いたい人が、一緒に同じものを買えるようになったら、すごく素敵じゃないでしょうか。

ところで、コカ・コーラが、アルゼンチンの「友だちの日」に合わせてリリースした自動販売機が、とても素敵なんです。

友だちと協力しないと、買えない自販機。

協力して買い物をすることが楽しくてお得、っていうこの自動販売機。その趣旨のとおり、友達と協力しないと買えないという趣旨のようです。苦労した分、通常の金額で友達の分もコーラが提供されるっていうしくみ。

一緒に同じものを消費する、っていう行動を楽しめる、友だちとの買い物を楽しめる、いい広告手法だと思います。友情を大事にするという企業の姿勢も伝わってきて、すごく僕的には好印象です。

さて、いま、インターネットを利用した共同購入のクーポンサービスが流行っています。いわゆるグルーポン系サービスというやつです。僕もちょくちょくチェックしています。twitterではその系統のサービスをまとめていますので、お得な情報をチェックしたいかたは僕の作ったこのリストをフォローするといいです。

この共同購入のクーポンサービスは、お店にとってもお客さんにとっても嬉しいサービスです。クレジットカードでクーポンを事前購入するという仕組みや、一度に大量のお客さんを集客できる、という点がお店側のメリット。一方、お客さんから見たら、本来の価格よりも格段に安く商品を買えます。

ただ、僕としてはこのグルーポン系サービスには、もっと面白いことが出来ると思っているんです。実は、上に書いたようなことを踏まえて、ちょっとした腹案というか、ビジネスアイデアがあったりします……。なかのひとはもし興味があったら僕を雇ってください(笑)

2010年7月23日金曜日

iPadを捨てよ、町に出よう

今日はちょっと、なんだかコムズカシイ感じの話で恐縮です。

デカルトとか出てきます。哲学の話です。僕も本当はあんまり哲学とか詳しい人じゃないんですが、大学の授業でメディア論という授業を受けていまして、そのつながりで少しそんな話を。

近代以降の哲学というのは、メディア論と重なる領域を持っていました。すなわち、問題は「どのように真理をみるのか」です。

当時、真理の獲得手段として用いられていた「信仰」に対して、デカルトは自己の存在を定式化することによって現れてくる「理性」こそ、真理探究の原点だと捉えました。

「我思う、ゆえに我あり」。

聞いたことがありますよね。哲学史上においてもっとも有名な命題です。

疑い得ないものだけを原点にして世界をつくりあげる――。

いまや「世界観」という言葉はありふれたものですが、当時において、世界を観ることは信仰の目を通さなければなりませんでした。個人の世界観など存在し得なかったのです。個人の「世界観」という概念を生み出したのは、デカルトさんの功績なのです。

たとえば、数学というのは確固たるもののひとつとして認識されがちです。

しかし、デカルトは数学さえ疑いました。神が人間を作ったとき(この創造神という前提を残しているところが、デカルトの近代的でない側面でありますが)、誤った数学についての認識をするように、人間をプログラムしているのかもしれない――。デカルトはそのように数学にさえも、懐疑心を持ち込んだのです。

絶対に保証できるのは、自分という存在が存在していることだけ。

ここで問題になるのは、僕たちが何かを認識するとき、数学のような絶対的と思われるような真理でさえも、自己の内側に潜む何かしらのフィルタ、自己の網膜とも言うべき何かしらの媒介を通してしか、把握することができないということです。

で。

現代の主流な哲学思想においては、個別の世界観に対する、こういうデカルト的な考えっていうのは、かえって大きな誤解や錯誤を引き起こす危険が強いと考えられていて、退けられがちです。

なぜか。

これは、一部の個人体験を過剰に信頼してしまうことが、ファシズムや極端な原理主義に繋がり兼ねないという危惧があるからです。つまり、世界を観るための媒体を、自己ひとつに依拠することは、リスクが大きい、ということなんですね。

僕もこの危惧には同意です。

自分の視点だけを信頼するのではなくて、より多様な視点を獲得することこそ、必要なことだと考えています。これ、いわゆる、多元論というやつです。

僕は投資におけるリスクヘッジに例えて考えることができるな、と思っています。

キーワードは「分散」です。

主に中長期的な投資を考えるとき、ひとつのものに集中投資する行動は、もっともやってはいけない投資行動のひとつだと言われています。ひとつの金融商品、株式、債券などに投資することは、投資対象の価値下落の際にリスクを回避できないからです。

よって、分散投資は金融投資の原則だと言われています。しかし、ひとつひとつの金融商品に個人で分散する手間も大きなコストであるため、分散投資のためのバランスを調整したパッケージ型の商品などが存在します。投資信託なんていうのはそれです。

これと同じことが、実は現代における媒体の選択においても可能です。世界を観るための媒体を分散させる、ということは、すなわち複数のメディアを通して事象を観察するということ。

これは僕たちがいまや日常的に行なっていることです。

インターネットを通じて、あらゆるところで濾過された情報を僕たちは消費しています。Google検索による機械的なページランク、Facebookやmixi、Twitterなどのソーシャルメディア。そういった、信頼可能で先進的な、より高度な分散手段を様々に組みあわせて、僕たちはインターネットを使っています。

そうして、「インターネット」というパッケージ型の投資信託を通して、僕たちは複数の媒体提供者を手にすることに成功しているといえるのではないでしょうか。

けれど、僕はここでもう一度立ち止まって考えたいのです。

複数の金融商品に分散投資を行っている投資信託でさえ、先に起きた大規模な金融危機のリスクを完全に回避することはできませんでした。

確かに、誤った投資先へ集中を行った投資家のように、大きな損害を被ったわけではありません。しかし、サブプライムローンの証券が、多くの金融商品と組み合わされて販売されており、多くの投資家は信用収縮による打撃をほとんど回避することができませんでした。

この原因は、多くの投資家が金融商品、その格付や保証といったものに対して、細部を見ようとする疑念を発揮しようとしないで、その業界全体の動きに対する過当な信頼を寄せていたことなんじゃないかと僕は思っています。

デカルト的な自己の「理性」をもう一度喚起し、サブプライム層に対する担保信用保証に対して、真理を見極める理性を、もう一度適用するべきであったのだと、僕は思います。

インターネットのソーシャルフィルタリングやによって得られる情報を、過当に信頼しがちな僕たち現代人。

僕たちにも、この投資信託の例と同じ観点を適用することが出来る、と僕は考えています。

卑近な例なのですけれど、僕自身の個人的な体験がそう。先日、エレクトロ・ワールドの歌詞についての記事でも少し書いたのですが。

ゲイデビューを果たし、複数のあらゆるゲイたちと新宿2丁目で交流することになって、僕がインターネットで得ていた世界観・価値観は変容しました。要は、僕自身にも、ゲイに対していろんな誤解や偏見があったんですよね。

インターネットによって知ることの出来る情報は、結局のところ、濃縮された「うわずみ」に過ぎないのだ、ということを、そのとき僕は学びました。

ゲイのことを知りたいのなら、やはり、自分の足でゲイたちに出会いに行くことが最も必要なのです。

宮崎駿は、スタジオジブリ発行の小冊子「熱風」のなかで、iPadを利用して情報収集をするというインタビュアーを、iPadをiナントカと呼び、痛烈に批判しました。

あなたの人権を無視するようですが、あなたには調べられません。なぜなら、安宅型軍船の雰囲気や、そこで汗まみれに櫓(やぐら)を押し続ける男達への感心も共感もあなたには無縁だからです。世界に対して、自分で出かけていって想像力を注ぎ込むことをしないで、上前だけをはねる道具としてiナントカを握りしめ、さすっているだけだからです。

僕は、自身の体験から、この宮崎駿の言説を強く支持します。

確かに、デカルトの「我」への唯一的な信頼感は危険だと僕も思います。

しかし、多元論的に、過剰に自分の世界観を、インターネットというツールをもって、他者の目線に分散して委託するだけでよいとは思いません。そうした行動は、僕たちを単なる消費者へと貶めかねないと思うのです。もしそうやって、消費者ばかりのインターネットになってしまっては、いったい何が面白いでしょうか。

ひとりひとりが、少しずつインターネットに、自分が獲得した生々しい言葉や色や音を吹き込むのです。

寺山 修司
角川書店
発売日:2004-06

ポーの"大鴉"を題材にとった、Utada「Kremlin Dusk」を聴く。

先日、ゲイバーで友人と宇多田ヒカルの話になりました。僕のゲイの友人には音楽好きな人が多く、その日は特に女性歌手の時代の変遷を追うようなトークでした。そのなかで最も盛り上がったのが宇多田ヒカルの話題で、その場で宇多田のウェブサイトを見て、ああでもないこうでもないという話をしていました。

広く知られていることですが、宇多田ヒカルの音楽は、古今東西の文学を多くモチーフにとっています。その中でも、文学そのものとして発表したかのような楽曲、Utada名義による "Kremlin Dusk" をみなさん聴いたことがあるでしょうか。



この楽曲で引用されている、エドガー・アラン・ポーの「大鴉(The Raven)」は、いわゆる物語詩です。

主人公は恋人レノーアを失って打ちひしがれており、そこに大鴉が訪れます。主人公は名前を聞くと、大鴉は「Nevermore(二度とない)」という返事をします。そのうち、主人公はその大鴉が「Nevermore」以外の言葉をしゃべれないことを革新します。主人公はそれから大鴉との対話を試みたり、打ちひしがれた思いをわめきちらしたりしますが、そのたびに帰ってくる言葉はくりかえし「Nevermore」のみ。最後に主人公は、天国でレノーアと再会できるかを問いかけます。大鴉は「Nevermore」と答え、主人公は発狂します。主人公はそうして、大鴉の影に魂を閉じ込められ、「Nevermore」と叫ぶことしかできませんでした――という物語。

この物語詩の特徴は、その音韻。

僕は詩に詳しい人間ではないので、完全にWikipediaからの受け売りですが、『大鴉』は各々6行の18のスタンザ(詩節、連)からできているのだそうです。

韻律は強弱八歩格。これは、アクセントの強い音節の次にアクセントの弱い音がくるトロキー(強弱格)という韻脚を1単位として、それを8つ重ねたものが1行になるというものです。第1行で説明すると次のようになります(太字は強勢、「/」は韻脚の区切り)。

Once up- / on a / mid-night / drear-y, / while I / pon-dered / weak and / wear-y

大鴉 ー Wikipedia

よくわかりませんよね(笑)

でも、なんとなく、催眠術的な感じを起こさせるものだということは理解できます。大鴉が主人公に繰り返し「Nevermore」と返すのもまた、催眠術的です。

ところで、実際僕も原典に挑戦を試みたのですが、英語が苦手なので、挫折しました。

代わりに、つい数年前に出た加島祥造による翻訳があるので、僕はそちらを読みました。


エドガー・アラン・ポー,加島 祥造
港の人
発売日:2010-02



この加島祥造の訳が特に優れているのは、「Nevermore」を訳さずに、そのまま「Nevermore」としたことのようです。また、実際に読んでみると分かりますが、無理なく、踏める音韻だけは翻訳版でも踏むようにしているのが分かります。

「と」の音が印象的。


さて、この作品で執拗に繰り返される「Nevermore」という言葉。

ポーはこの「Nevermore」の「o;(オー)」という長母音が、長く伸ばすことが出来て悲哀の調もかねることが出来る言葉だとして、選んだのだそうです。

Utadaはこの「o;(オー)」の響きを、この楽曲 "Kremilin Dusk" に執拗に取り入れています。確かに楽曲前半の「o;(オー)」は特に、悲哀を感じるような、そんな音がこめられているように聞こえます。

Utadaのこの試みは、実は詩ではなく歌という表現手段だからこそ出来た表現です。本来なら長母音ではない音も、歌の中で長母音へと変化させて強調しています。

まず、「Kremlin Dusk」の歌詞前半の悲哀を込めて歌われる部分を見てみましょう。

All along I was searching for my Lenore
In the words of Mr. Edgar Allan Poe
Now I'm sober and "Nevermore"
Will the Raven come to bother me at home

Calling you, calling you home
You... calling you, calling you home

By the door you said you had to go
Couldn't help me anymore
This I saw coming, long before
So I kept on staring out the window

Calling you, calling you home
You... calling you, calling you home

赤く記したのは長母音の「o;(オー)」が使われている箇所。特に末尾の「o;(オー)」は実にたっぷりと伸ばして発声していますよね。これを見ながら聞いてみると、Utadaのこの長母音に対する表現の試みが分かると思います。

これだけではなく、Kremilin Duskは、全編にわたってこの音律へのこだわりが見える作品なのですが、もうひとつ特筆しておきたいのは、歌詞後半の執拗に繰り返される、疑問文の繰り返しです。

一部だけ、和訳を添えて抜粋します。

Is it like this
Is it always the same
If you change your phone number, will you tell me

それが好き?
いつもの調子?
電話番号を変えるなら、教えてくれるよね?

ちなみに、この部分は「i(イ)」の音が特徴的ですね。

何故後半はひたすら疑問文を繰り返す構造になっているのか。僕が考えるに、ここには問いかけに対するとある答えがすべて省略されているのです。

もちろんその答えとは、「Nevermore(二度とない)」。

楽曲前半の悲しい穏やかさに比べ、疑問文が執拗に繰り返されるにつけて、楽曲の調は狂乱と絶望に駆られたかのような激しさをまとってゆきます。それはまさに大鴉の主人公と同じような感情の流れです。

Utadaがこの楽曲を収録した「Exodus」には、この曲以外にも、様々な実験的作品が複数収録されていますが、僕は特にこの「Kremlin Dusk」が面白い楽曲だと感じました。たまにこの曲、ヒトカラで歌ったりしていますw

Utada
ユニバーサルミュージック
発売日:2004-09-08

他の楽曲も魅力的です。おすすめです。

2010年7月21日水曜日

過渡期の不幸と大富豪の革命

修学旅行や部活の合宿、みんなでお泊りした時の、夜の楽しみといえば、なんでしょうか。そう、想いを寄せる彼の寝顔……も、そりゃあ楽しみなんですが、定番といえば、カードゲームですね。そう、UNOやトランプです。

世代ごとにトランプゲームのブームは違うかもしれませんが、僕が最も遊んだトランプゲームは「大富豪」です。地域によっては「大貧民」とも。

その名の通りプレイヤーが「大富豪」「富豪」「平民」「貧民」「大貧民」などと格付けされるゲームですね。ローカル・ルールも様々ありまして、「イレブンバック」や「8切り」、「階段革命」なんてのもあります。

このゲームの特徴は、なんといっても「革命」。

それまで強かったはずのカードが一転してババになり、それまで弱かったはずのカードが一転して最強の手札になる、まさに「一発逆転」です。

強い手札が手元に集まってホクホクしていた人にとっては、「ちょっと、こんなの聞いてないよ!」といいたくなるようなこの「革命」ですが、現代社会においても「革命」で似たようなことが起きることがあります。

安定した職業だと思われているポジションを確保してぬくぬくしていたら、いつの間にか、かえって損な役回りを押し付けるポジションに変わってしまったり。

価値があるものを溜め込んでいると思っていたら、いつの間にか、課税対象になったり価格が大暴落したりしてしまったり。

一流企業は潰れない? 土地の価格は下がらない? 昔はそう思われていましたよね。新聞社や出版社が倒産するなんて。自由民主党が政権をとられるなんて。そんなことも思われていました。公務員は安定した職業だったはず。地方自治体が破産することがあるの? JALはかつて就職人気のナンバーワンだったよね?

過渡期の変革はこういう不幸をうみます。約束されたはずのものが得られない、という不幸。大富豪のゲームほど大逆転は頻繁に起きない気がするけれど、

でも、なんとなく、過渡期の不幸は大富豪の「革命」に似ている気がする、とふと思ったのでした。

必勝法は見つかるものなのでしょうか。

2010年7月20日火曜日

死者と生者の対立を描けなかった、あるいは描かなかった「東のエデン」。

某ゲイバーを拠点に、その店で知り合った友人たちおよびママと「エヴァ部」なる部活に参加しています。名前の通り、エヴァを見たり語ったりする部活です。というのは半分本当、半分嘘で、その活動はエヴァだけにとどまりません。さて、もう数カ月前の話になるのですが、このメンツと一緒に「東のエデン」の劇場版を鑑賞してきました。

僕はこの「東のエデン」のアニメ版がとても好きで、この劇場版もたいへん楽しみにしておりました。アニメ版でひろげた大ぶろしきを、劇場版で回収できるのか――。しかし、結果は残念。そこかしこに散らばった矛盾点になんの落とし前をつけることもなく、説明不可能なハイパーハッキング行為によって物語は強制終了させられました。

とはいえ、このアニメが非常に面白いアニメだったことには変わりありません。論点がきちんと整理されておらず、明確な対立が正しく提示されなかった(その最たるものは「ニート」の描きかた)のは残念でした。しかし、少なくとも、物語の核に選んだポイントは十分に魅力的でした。

ノブレス・オブリージュ。財産や権力の保持には社会的責任がともなう、という考え方。

では、「財産や権力を保持する人」って誰なんでしょう。

以前取り上げたように、65歳以上の平均貯蓄残高は2423万円。不動産が4251万円。ただしこれは世帯あたりなので、単純に2で割って3337万円。これに100万をかけるとざっと33兆。赤字国債を帳消しにできるほどの額だ。

Spend Now, Pay Later -- Posthumously - 404 Blog Not Found

さて、リンク先のdankogaiのブログにも詳細があるのですが、ここでいう「持てる者」とは高齢者のことだけではありません。確かに高齢者は、財産や権力を保持する層です。

しかし、いえ、むしろ、それ以上にこの国において強大な権力を持つ存在がいます。

それは「死者」です。

東のエデンに登場した「相続税100%法案」。これがすごい。いったいこの法案がいかにして提出され、いかにして国会で論じられる争点となったのか。非常に興味あるところなのですが、アニメではほとんど描かれません。この法案は、死者からの財産剥奪によって、国家を生者のものへと引き戻す衝撃的な法案です。

是非はともかくとして、東のエデンはこの対立を、わざとなのか、誤魔化しました。

裕福な親に守られ、働かなくても生きていける「ニート」の多くは、祖父母あるいは曾祖父母世代の死者からの潤沢な相続を受けることが出来る層です。死者の権力をあてにした、そういう存在、いわば<持てる者>です。

しかし、東のエデンはこの「ニート」たちを、「持たざる若者たち」とほとんど同列に語りました。それどころか、既得権益と戦う代表選手のように扱っていました。

とんでもない。

エヴァ部では劇場版の前編を鑑賞の後に、作中でも登場した豊洲の「東のエデン事務所」を貸切にて、会食&作品の議論を行ないました。当然、その場で「ニートは『持てる者』だろ」というツッコミが入り、僕たちは不満をじゅうぶんに語りました。

しかし、結局、劇場版の後編をしても、作り手たちからその点について結局十分に語られることはありませんでした。

格差問題が語られるとき、多くの議論で抜け落ちている視線があります。おそらく先述のdankogaiブログなどの読者にとっては自明です。それは、強者・弱者にはふたつのベクトルがあること。

ひとつはフロー、ひとつはストック。より分かりやすく言えば「産み、稼ぐ強者/産まず、稼がない弱者」と「持つ強者/持たざる弱者」。

この国の「持つ強者(死者)」は何故こうまで稼ごうとしないのか。

あまり他人の生き方や死に方に不平不満を言いたくはありません。しかし、やはりこれだけの数字を見てしまうと、愚痴くらいはこぼしたくなってしまいます。

貯蓄残高2000万以上……。

多額の奨学金で借金漬けのスタートを切らざるを得ないイチ学生としては、喉から手が出るほど欲しく「その金で俺に商売させろ!」「若年者が負担しなきゃいけない国債をそれで帳消しにしてくれ!」と言いたくなるほどの額であります……。

まあ、相続税100%は、さすがに暴挙だと思ってはいるんですけれどね。

参院選を通して、考えた税金の話。

第22回参議院議員通常選挙が終了しました。って、今さらながらですが。

僕が支持していた候補、松田公太さんは当選。さらに支持政党のみんなの党も躍進しました。もうすこし早くこれについての記事を書きたかったのですが、出遅れてしまいました。レポートや試験の季節なので(言い訳)。

選挙にあたってはいくつもの争点がありましたね。その中でも特にメディアで大きく報じられていたであろうと思われるのは、発足したばかりの民主党政権に対する中間評価、といった側面でしょうか。

その側面を中心として、普天間基地の代替移設問題、外国人参政権の付与可否、消費税増税、行政刷新会議、夫婦別姓、子ども手当、公務員削減、赤字国債、天下りなどといった複数の論点――とまあこんな感じかな、と素人ながらに選挙の動向を見守っておりました。

今回の参議院議員選挙を通して、僕が最も重要だと感じたのは「税金」の問題でした。

根本から考えてみると、政治――国家の仕事って、実にシンプルな仕事ですよね。

それは、国民から信頼を得て税金を預かり、それを国家運営――国民に提供するサービスのために使う、ということです。

それは一種の会社経営にも似た営みではないかと僕は考えています。しかし、国家と会社が根本的に違う点があります。それは、原則的に僕たちは国家のサービスを強制的に購入しなければならない、ということ。すなわち納税義務がある、ということです。国家からは強制的に(税の)支払いを求められますし、国民が要求するしないにかかわらず、サービスが提供されます。

さて、なぜそのような「国家」が必要なのか。市場経済では提供不可能だけれど、必要とされているサービスが存在するから、というのがその理由のひとつだと僕は解釈しています。

たとえば、警察。

警察は国の税金で運営されています。警察は僕たちの日々の暮らしを守ってくれています。罪を犯せば罰せられるという原則を世の中に保ち、犯罪などから僕たちの身の安全を守るために、警察官のみなさんが働いています。

おおむね国民はこの警察というサービスの提供を望んでいると思います。また、例に上げた「警察」以外にも、「国防」や「裁判」や「医療・福祉」などといった「公的なサービス」があります。

けれど、このサービスを市場で商品として提供するというわけにはいきませんよね。警察に対して「私は自分の安全は自分で守るからこのサービスに対価(税金)は支払わないわ」なんていうAさんがいたら、そもそもサービスがなりたちませんからね。

そういうわけで、日本国憲法の30条には、国民の三大義務とされるもののうちのひとつが定められています。すなわち、「納税の義務」。

けれど、世の中には金持ちもいれば貧乏な人もいます。大金を稼げる能力を持った人もいれば、病気で働けず稼げない人もいます。貧乏な人や病気で稼げない人に対して、丈に合わない税金を納めろ! なんていうのは、非情ですよね。当然、少し余裕のある人は彼らの納税分を代わりに助けましょう、という話になります。

また、「公的なサービス」の恩恵を強く受ける人とそうでない人がいます。若者に比べて、高齢者のほうが、医療や福祉の公的なサービスの恩恵をたくさん受けると思います。また、東京都民と沖縄県民では、生活保護を受ける人の人数も割合も違います。

こういったところから生じる、税負担の不公平感を解消するために、課税には様々な仕組みが設けられています。たとえば、タバコや酒などのぜいたく品にはより多く課税したり、所得の高い人間にはより多く課税したり、使途が定められた目的税とそうでない普通税を分けたり……といった仕組みです。

こういった税の仕組みについて、僕はこの参議院選挙を通して考えるようになりました。そして、僕はこの「税負担の不公平感」こそが政治への不満の、もっとも根本的な点なのではないかと思うようになりました。

たとえば、今回の選挙について考えると、たとえば以下のような感じです。

  • 子ども手当の財源はどこの誰が支払う税金から出てくるのか。
  • 赤字国債の補填はどこの誰から支払う税金から出すのか。
  • 現在いろいろと行われている公共事業は我々が負担する税金で行う価値があるのか。
  • 公務員や官僚は安定した給金を貰っているようだが我々の税金をそこまで彼らに支払う必要があるのか。

たとえば、医療や福祉についての税負担は、確かに一部の人達のためにみんなの税金が使われています。けれど、その一部の人達を支えることが、みんなの安心にもつながります。ですので、多くの人々がこの充実を願ったりするわけです。

一方で、一時期話題になったような「はやぶさ」への公的支出はどうでしょうか。はやぶさを支えることで、日本国民がどれほどの恩恵を受けるでのしょうか。科学・宇宙技術の進展は確かに日本国民に恩恵をもたらすこともあるでしょう。しかし、現在の公的支出は、その恩恵にみあったものでしょうか。事業仕分けでは関連予算が「削減」とされていましたね。

こういった公的支出と税負担とのバランスをいかにコントロールするか、これが政治家のお仕事の実に大きいポイントだと僕は考えます。

今回、東京選挙区では蓮舫さんがトップ当選を果たしました。東京選挙区はいわゆる「地盤」や「組織票」の影響力が他の地域に比べて小さい「浮動票」の占める割合が大きな地域です。すなわち、純粋に政治家の仕事や姿勢に対して、投票行動が反映される傾向があります。

蓮舫さんがダントツのトップ当選を果たしたのは、この「公的支出と税負担のバランス」という問題に、行政刷新会議(事業仕分け)を通して切り込んだという点が大きいと思います。僕も蓮舫さんは支持していました。

今回の選挙は、僕にとっては政治というもの、そして税金というものを、より身近に捉えるきっかけになりました。

消費税増税の前にやるべきことがある。

みんなの党の主張はその点で明確で、支持できる政党だと感じました。また、公的支出を効率よく医療・福祉に充当し、ミニマムインカムなどの生活を重視した政策を掲げています。民業圧迫を押しとどめ、経済成長に重点を置く点についても、将来世代(若年層)への配慮が強いと感じました。ミニマムインカム導入や道州制の導入などについても、賛成です。

今回の選挙を通じて考えた税金のこと。

僕たちは、もっと税金がどこの誰によって負担され、何に使われているのかを明確にしる必要があるのかもしれません。あるいは、政治家によってそれはもっと明確にされるべきなのかもしれません。

手始めに消費税についてもっと知ろう、と考えて、昨日こんな本を買いました。いま読んでいる途中です。

斎藤 貴男
講談社
発売日:2010-07-16

消費税って、いったい誰が誰のために払っているんでしょうか。

消費税は、本当に「消費者が」払う税なのでしょうか。

また、消費税は「消費」にかかる税金ですが、消費を抑制することにつながるのではないでしょうか。

また、地方の消費と都市の消費、若年層の消費と高齢者の消費には、大きな差があるのではないでしょうか。

税金の多くは成人してから納めるものですが、消費税は子どものころから支払ってきました。

そんな身近な消費税のことから、税金について僕はもう少し考えていきたいと思います。

追記:
この記事、書き終えてから将来世代(若年層)が大きく負担せざるを得ない「国債」についてもっと触れるべきだったと後悔しました。

2010年7月15日木曜日

中田ヤスタカの歌詞の世界 ~ポリリズムとエレクトロ・ワールドから

中田ヤスタカは自分の書いた歌詞についての説明をほとんどしません。これは歌い手に対してさえもそうで、Perfumeの三人に対しても、歌詞の説明はされないと聞きます。

capsuleの楽曲については、そもそも歌詞すら明らかにしません。歌詞を聞き取りにくいものも多々あり、歌詞そのものに複数の説がある場合も珍しくありません。その最も特徴的なのが「JUMPER」です。検索してもらえば分かりますが、正しい歌詞をみつけることはほとんど不可能です。なお、capsuleの楽曲はカラオケにもほとんど入っていません(capsuleは一部を除いてJASRACに楽曲管理を委託していない)。

こういった中田ヤスタカの姿勢は、ほぼ間違いなく意図的なものだと僕は考えます。よく彼について言われるのは、彼がとてもビジネス的な発想の持ち主だということ。

それは彼が語る音楽制作スタイルからも明らかです。彼は常に自分の音楽制作にとって最適な手法を模索しています。

例えば、有名な話ですが、彼は自宅に自前のスタジオをつくっています。電話ボックスサイズの、非常に小さなスタジオです。

何故このようなスタジオをつくったのか。スタジオをレンタルすることは、スタジオを利用する時間に制限がかかってしまうからです。そして、彼の音楽にとって、一般的な「大きなスタジオ」は必要がない。レンタルスタジオは彼の音楽にとって、コストであると彼は判断しました。機材についてのこだわりも非常に強い中田ヤスタカにとって、スタジオはレンタルより自前であったわけです。

しかし、スタジオはレンタルするものだという認識が根強い音楽業界。そこにあって、この判断を下せる中田ヤスタカには、サウンドプロデューサーという肩書きだけではない、別の才覚を見出さずにはいられません。

また、これだけ成功したサウンドプロデューサーでありながら、決してそれを専業にはしないところも、サウンドプロデューサーとしては特徴的です。DJかつイベントオーガナイザーという自分の足場を着実に固めており、それどころか、Perfumeなどのプロデュースを、DJなどの活動のプロモーションとすら捉えているフシさえあります。

歌詞の話に戻ります。

以前の記事にも載せましたが「ポリリズム」の歌詞の話をします。

ほんの少しの 僕の気持ちが
キミに伝わる そう信じてる
とても大事な キミの思いは
無駄にならない 世界は廻る
ほんの少しの 僕の気持ちも
巡り巡るよ

この歌詞において中田ヤスタカが表現したことを僕なりの言葉で説明します。

「表現や気持ちというものは、伝えることができる。僕の発した表現についてのキミの思いも無駄にならないし、キミから返ってきた言葉を、伝え手は受けとめることができる。僕が発した少しの気持ちの表現が、キミたちを経由して、世界をめぐることを信じている。」

これは、インターネットの発達によって、アーティストとファンの距離が縮まったこと、そしてインターネットによるファンの言葉の影響力が大きくなったことを示唆していると僕は考えます。現にPerfumeやcapsuleの成功を支えたのは、マスメディアのプロモーションよりもネットのコミュニケーションからの影響が大きいわけです。

ここに、歌詞について説明を避ける中田ヤスタカの意図を見ることが出来ます。

中田ヤスタカの歌詞は解釈が受け手に委ねられています。何故、中田ヤスタカは解釈を委ねるのか。それは、解釈について、コミュニケーションの発生を期待しているからだ、とは考えられないでしょうか。

おそらく彼は、「コミュニケーション」こそ音楽が扱うことのできる最も大きな商材のひとつであると捉えているのだと思います。彼は自身が主催するパーティやライブなどについて「音楽以外のものを楽しんで欲しい」と言います。これこそまさに、彼が音楽そのものだけではなく、音楽を通じたコミュニケーションをも、自分の売り物だと捉えていることの証左ではないでしょうか。

せっかくですので、もうひとつ、「エレクトロ・ワールド」という曲の意味解釈について、話をします。

この歌詞は広義のパラダイム・シフトについて書かれた曲です。認識や思想、価値観などが劇的に転換するさまを描いています。

この道を走り進み進み進み続けた
地図に書いていてあるはずの町が見当たらない
振り返るとそこに見えていた景色が消えた
この世界僕が最後で最後最後だ
エレクトロワールド
地面が震えて砕けた 空の太陽が落ちる 僕の手にひらりと

いままで自分の進み続けた道の先に待っているものが、以前の認識で捉えていたものとは違っていた。地面が砕け、太陽が落ちる。

これはまさに、価値観の転換、革命的な考え方の変化そのものについて描いた歌詞です。それを「エレクトロ・ワールド」というフレーズを通じて書いているのは、多くの人が、インターネットと密接に関わった「価値観の転換」を体験していることを踏まえたものだと僕は考えます。
本当のことに気づいてしまったの
この歌詞で書かれている「本当のこと」は、最重要キーワードです。その「本当のこと」をインターネットで得たのか、それともインターネットから離れたリアルの世界で得ることができたのか。ここを前者と捉えるか、後者と捉えるかで話がだいぶ変わってきます。僕の解釈では後者です。

僕の個人的な体験に結びつけて話をします。

インターネットによってゲイについての情報を得ることは今や難しくありません。検索ボックスにそれらしきキーワードを放りこめば、ケータイでもパソコンでも、ゲイについて知ることができます。

しかし、新宿2丁目をはじめとして、ゲイが集う場所やイベントに出かけていき、そこで人間関係をつくっていったことで、僕の価値観は広義の意味でパラダイム・シフトをおこしました。

インターネットによって知ることの出来る情報は、結局のところ、濃縮された「うわずみ」に過ぎないのだ、ということを僕は学びました。

ゲイのことを知りたいのなら、やはり、自分の足でゲイたちに出会いに行くことが最も必要なのです。

そこで息をして、暮らしをして、ご飯を食べて、仕事をして、恋をして、 そうやって生きているゲイの、 歩くときの呼吸や、笑った表情や、まるまった肩や、皺ついた手のひらや、 話すときの声色や、笑いすぎたときの涙のこぼれるさまを、 同じ場所に出かけていって、直に感じ取ってくることが「ゲイについて知る」ということなのです。

これが僕の「本当のことに気づいてしまったの」です。インターネットによって生成された価値観が転換させられたことを重ねながら聴くことが出来る曲なのです。「エレクトロ・ワールド」とはすなわち、このウェブ社会の中で人々が自分のなかにつくりあげている「世界」そのものです。

いかがでしょうか。

エレクトロ・ワールドだけではなく、中田ヤスタカの歌詞には、それぞれによって、いろいろと解釈が可能なものがたくさんあります。

Wikipediaを調べてみると、この「エレクトロ・ワールド」は「コンピュータで生成された仮想世界が崩壊していくさまを描いている」なんていう「説明」が載っていて、「要出典」を付けられています。

その他の曲の歌詞についても、非常にオモシロイものがありますが、それはまたいつか別の記事で。

2010年7月9日金曜日

あした、僕が、嫌いなはずの抹茶ラテを朝イチで飲みにいく理由。

食べ物も、飲み物も、僕の好き嫌いは多くありません。そんな僕の数少ない苦手なものがあります。抹茶をつかったラテやスイーツです。抹茶そのものは好きなのです。ただ、抹茶にクリームを加えたり、ミルクを加えたりした加工品が苦手なのです。抹茶アイスも苦手です。

僕はよくゲイ友達とファミレスでお茶をします。ファミレスのスイーツって、定番商品とフェア商品を組んでいることが多いですよね。そんなときに、抹茶のスイーツのフェアが組まれていると、がっかりしてしまいます。いまも実はデニーズにいるのですが、ちょうど和スイーツ特集です。

僕は食べたり飲んだりすることが大好きです。ただ、残念ながら、舌に自信はありません。いわゆる味音痴。それに気づいたのは、ある日の夕飯のテーブルでした。母の料理のちょっとした隠し味に、父と弟が気づきました。僕だけが気づけませんでした。そのとき、父か弟か覚えていないのですが、「まさひろは味音痴だ」と言ったのです。ああ、僕は味音痴なのだ。そのときに僕は自覚しました。

味音痴は、僕のコンプレックスのひとつです。けれど、たいていのものは美味しく食べることが出来ます。実はゲテモノといわれているようなものでも、わりと平気で食べます。東京には変わったお店があったりするもので、サソリやすずめも食べました。ハチとか、イナゴとか、カエルとかも。ぜんぶ美味しく食べました。僕はもともとあんまり好き嫌いが少ないのです。そして、それはとても幸せなことだと前向きに考えています。

どうしてそんな好き嫌いやら抹茶やらについての話をいきなりはじめたのか。それは明日、とあるお店に抹茶ラテを飲みに行ってみよう、と考えたからです。東京には2店舗を出店しているその店の名前は「KOOTS GREEN TEA」といいます。東京2店舗の場所は、麻布十番と東京ミッドタウン。明日は麻布十番のお店をたずねてみようと思います。日付が変わっているので、厳密には明日ではなく、今日なのですが。

明日は仕事もあるので、行くとしたら朝イチしかありません。しかも、実は今日、うっかり、とある本を電車の中で読みふけった挙句に、終電を逃してしまいました。ファミレスで一晩過ごします。そんな疲れ明けの身体で、なんでわざわざ嫌いな抹茶ラテを飲みにいこうというのか。それは、読みふけってしまったその一冊の本が、原因です。

「すべては一杯のコーヒーから」――。

松田 公太
新潮社
発売日:2005-03

先日僕は、ブログで東京選挙区では松田公太さんに一票を、と書きました。

しかし、正直、先日あの記事を書いたときに、僕は松田公太さん当人について詳しくは知りませんでした。少なくともWikipediaに乗っているような公式のプロフィールや、アジェンダのほかには。もちろんそれだけでも別に構わなかったのですが、せっかくなら本を読んでみよう、と考えました。

この本は、いわば松田公太さんの自伝です。タリーズ・ジャパンを創業し、軌道に乗せていくまでを、彼の少年期から書き起こしたものです。少年期のいじめや、家族との死別。失敗と挑戦を繰り返してきた、その半生が描かれています。

シンプルに読後の感想を言い切ってしまうと、松田公太さんはものすごく熱い人です。情熱があって、決断力があって、強くて格好いい人です。明るくて、さわやかで、男らしい。僕はジェンダーやセクシャリティについての観点から、男らしいという表現があまり好きじゃないのですが、それでも彼にはこの言葉がやっぱり似合ってしまうので使ってしまいました。本人は自伝の中で自分のことを、突撃野郎と言っていますが、まさに言い当てていると思いました。米タリーズの創業社長であるミスター・トムに松田社長がアポイントをとったときの突撃っぷり、そしてその格好良さと言ったらありません。

僕はこの本をものすごく面白く読みました。ただ、正直なところ、この本は誰にでもオススメしたい本というわけではありません。

僕は、あまりに強くあろうとする彼の姿に、あまり共感できませんでした。育ちも違い、性格も違い、強い彼には自分を重ねることはできませんでした。まあ、そもそも共感できるように書かれた本というわけではないのだと思いますが……。

僕はとても弱虫だし、いくじなしだし、そして彼のように自分に厳しく生きることができていません。

つい無駄遣いしてしまうし、つい夜更かししてしまうし、つい……。「つい」が多くて、自分の弱さにほんとにがっかりすることばかりです。

なんというか、今の僕は十分に幸せなのです。友だちとおしゃべりしたり、友だちと一緒にごはんを食べることが本当に幸せです。楽しいのです。だからなのか、強く何かを変えなければいけない、というような強い気持ちをいまひとつ持てていないのだと思います。こう変わったらいいな、こう変えていけたらいいな、そういう思いは確かにあります。けれど、まだここまで、強くなれていません。つい、楽をしてしまう自分がいるのです。別にこのままでもいいかな、と思ってしまう自分がいます。

だから、彼の夢をふくらませる力、彼の目標を達成し成し遂げる力。僕は本書を読みながら、人間にはこんな力強さがあるのだと、ただただ素直に感服するばかりでした。

彼は文庫版の巻末で、人間の弱さについて触れています。そこで彼は書いています。自分はまだまだ弱い人間だと。

以下、引用します。

以前から感じていたことだが、特にここ数年で痛感するようになったのは、人間の弱さである。ダイエットひとつとっても一人でやり遂げることは難しい。また、自分のミスや自分の弱さ、不出来を認められずに、言い訳をしたり、他人のせいにしたりする人がいかに多いことか。この点は私も常に自戒している。(中略)私自身、自分の弱さは十分に自覚しているつもりだ。だからこそ、安易な快楽や贅沢に流されてしまうことが、怖いのである。

これを読んで、僕はとてもフクザツな気持ちになりました。

だって、松田さんは十分に強い。尊敬するほど、強い。なのにそんな強い人が、自分の弱さについて語っているのです……。

いつだったか、一時期、ネット上で「マッチョ」と「ウィンプ」という言葉が流行ったことがありました。簡単な定義をつけると、マッチョは、自分に厳しくあろうとする人。自己責任を前提にして、ものごとを語る人。ウィンプは、他人に厳しくあろうとしたり、自分に甘い小市民のこと。この定義で言えば、松田さんはマッチョです。とてつもなく。

僕はかつて、こういうマッチョに反感を抱いたりしていました。そんなふうに強くなれない人だっているんだ、と。

ていうか、そもそも社会が不平等じゃないか、と。社会が僕たちを苦しめていて、そんななかで僕たちが強くないことを責められると、つらい。僕は確かにすぐ無駄遣いをしてしまうし、僕は確かにだらけてしまうし……。それで生活が苦しかったり、人に迷惑をかけてしまったり嫌われてしまったり、失敗したりして。自分のせいだって自分を責めてしまうのは、つらくてかなしくて、泣きだしてしまうくらいしんどくて。そして、世間や社会のせいにしたりして。確かに「言い訳」なんだけど、それを「言い訳」っていわれることがすごくイヤでした。そのくせ、人のあら探しばかりしていました。

だから、以前の僕は、マッチョな人がほんとうはちょっと、苦手でした。清く正しく凛々しくカッコよく頑張っている人が、実はほんとうはちょっと苦手なのでした。それはたぶん、そんな人に自分の弱さが責められているような気がしていたからです。お前のような弱い人間はキエテシマエ! そんなふうに思われているんじゃないかと、ビクビクしていたから。

そんな以前の僕が、この本を読んだら、つらくてつらくてしかたなかったと思います。こんな風には強くなれない……きっと、凹んでしまったと思います。

すごく面白く読んだし、この本で僕は松田さんのことがすごく好きになりました。ただ、それでも僕が、この本を「誰にでも」とオススメできないのは、そんなふうに弱い自分を責めるつらさを知っているからです。以前の僕のようなメンタリティの人には、この本はきっととんでもなく強い毒だと思います。以前の僕なら、たぶん、こんなふうに一気にこの本を読み終えたりしなかったと思います。

今の僕はどうなのか。

実は、確かにこれを読んで、やっぱりダメな自分のことを責めて、ちょっとつらくなりました。誰かに、自分の弱さを責められているような気がして、ビクビクしたりしました。彼ほどの偉業は成し遂げられなさそうな自分に、凹みました。

ただ……、この本を読んで、少しわくわくしている自分がいました。

このわくわくについては、まだちゃんと説明できません。ただ、心臓がバクバクするような、そんな読後感がありました。いま、その心臓のバクバクが、実は自分の何かを変えてくれるんじゃないか、と感じています。

嫌いなもの、嫌なものについて、もうちょっと向きあってみよう、と考えました。

イヤなもんはイヤ!!!!! って、僕は本当は思っています。たとえば、掃除とか片付けとか大嫌い。運動も息切れするし疲れるしうまくできないし、だいっっ嫌いです。お金の管理も苦手だから心底嫌いです。

でも、もしかしたら好きになれるものも、なかにはあるかもしれない……いまそんなふうに思っています。

実はそれが冒頭の抹茶ラテの話につながるというわけです。

うまく言えないのですが、今の自分に必要なものが、もしかしたらそこに、抹茶ラテの中に見つかるかもしれない。この本を読んで、そんなふうに感じたのでした。

「KOOTS GREEN TEA」は松田さんが、新たに始めたばかりの挑戦です(←間違いでした。追記参照)。緑茶を中心に提供するチェーンで、松田さんはこれを海外に発信しようとしています。僕はこれはきっと成功するビジネスだと思っています。ペットボトル入りの緑茶市場は近年急速に拡大しています。緑茶というのは実は、コストがなかなか安いうえに、そこにお金を払ってでもこだわって美味しい物を、と考える人が多い、そういう市場なのです。海外にも十分に浸透させることが出来る、そういう日本の強い文化だと思うのです。コカ・コーラにもきっと負けない、日本のドリンクです。

KOOTS GREEN TEA

まあ、もしかしたら……やっぱり美味しくない!!! って思うかもしれないけれど。

僕は、あした、抹茶ラテを飲みに行きます。

追記;よく調べてみたら、KOOTSをはじめたのは随分前のことで、そして松田さんはもう社長を退任して、KOOTSのビジネスを任せ、現場から遠ざかってしまったみたいでした。KOOTSはどうなるんだろう。

2010年7月7日水曜日

東京選挙区の最後の議席を、松田公太に。

みなさん、参院選は誰に入れるか決めました?

参院選が迫っていますが、twiterのタイムラインを見ていても、いまいち盛り上がっていません。僕の周囲でも特に話題に上がっている様子はありませんね。

さて、僕はもう誰に入れるか決めています。みんなの党の松田公太さんです。東京選挙区で、まだ誰に入れるか決めていない方、松田公太さんにぜひ一票を。

彼には政治家としての才覚があると思います。

どうして松田さんに政治家としての才覚があると思うのか。それは、彼が成功した起業家だからです。松田さんはタリーズコーヒージャパンの創業者です。また、世界経済フォーラム(ダボス会議)のYoung Global Leadersのひとりにも選出されています。政治家にはビジネスパーソンとしての資質がなくてはならない、というのが僕の考えです。

なぜ、政治家にビジネスパーソンとしての資質が必要なのか。それは、国家も結局は会社みたいなものだからです。違うのは、会社と違って、リストラができないことです。

政治家と官僚は、すべての構成員(国民)を抱えて、国家を運営していかなければなりません。国民を富ませ、それによって税収をあげねばいけません。それが国家をまわしていくということです。バランスシートを読み取ること。損益計算を把握すること。ストックとフローでものごとを考えられること。それができる人物こそ、政治家にふさわしい人物ではないでしょうか。数字に強くなければなりません。

僕がみんなの党を支援している理由も、そういった側面があります。最近のみんなの党は、民間のベンチャー経営プロ集団のようになっています。

僕はみんなの党と社民党を両方応援しています。

マイノリティや医療・福祉に熱心な社民党の意見は重要です。国政に社民党の声は必要だと思います。同性愛者にもフレンドリーです。HIV啓発、障害者支援といった、医療・福祉への取り組みを重視し、生の現場の声に強く耳を傾けてきました。社民党の存在は僕は重要だと思います。

しかし、福祉をバラマキや再配分で行うのは良い政治ではないと僕は考えます。効率的で、効果的で、戦略的な福祉を。財政や国の構造破綻を解決せずに、福祉のためのお金は生まれません。

僕たち若い世代が、福祉の重負担につぶされる社会をこのまま見過ごすのはやめましょう。

必要なのは「公約」などという「動かない約束」ではなく、国家をどのように立て直すかという「戦略」と「経営者的な視線」です。みんなの党は公約ではなく、政策課題を掲げています。

東京選挙区はまず確実にダントツで蓮舫さんが首位ですね。僕は蓮舫さんも実は結構好きですし、蓮舫さんに入れる人の気持ちもわかります。しかし、どうせ入れる一票なら、ちゃんと政治を動かしたくありませんか? 蓮舫さんは放っておいても議席を獲得します。

東京の選挙区の議席はぜんぶで5つ。松田さんはその最後の5つめの席を争っています。彼がこの議席を取れるか取れないかで、この国は本当に大きく変わると僕は思います。

直前ではありますが、僕は松田公太さんの選挙スタッフにも登録しました。

ちょうど試験・レポートシーズンなので忙しいのですが、合間を見ながら選挙のお手伝いをしてこようと思います。

東京選挙区は松田公太に一票を。



松田公太オフィシャルサイト

2010年7月1日木曜日

実用的なことが同時に美しい

先日、ゲイバーでとある年配のゲイの友人に「まさひろくんはゲイゲイしい服装とか、あんまりしないよね」と言われました。実際の僕がゲイゲイしいのかどうかはおいとくとして、そのかたにはそのようにみえたようです。ゲイのステレオタイプな服装や格好だとかいうのは確かにあります。そしてそれを「イカホモ」なんてよんだりもするわけです。

まあ僕は、おしゃれでは全くないと思いますが、僕なりに、自分にフィットするような服を着るようにしています。どうしてもずぼらな性分があるので、自分でもひどい格好をしてしまっていると思えるような時も結構ありますけどね……。やたらぴちぴちだったりとか。

ところで、実を言うと、最近はもう服のほとんどがユニクロです。このブログを書いている今なんて、カバン以外のすべてがユニクロです。靴も、靴下も、ジーンズも、シャツも、下着までも。

先日、ゲイバーに同年代のゲイの友だち4人で飲みに行ったときのこと。その友だち3人ともが、今着てるシャツユニクロだし、ジーンズもユニクロだよ、と言っていて驚きました。あまり気づかなかったけれど、ユニクロを愛するゲイは僕だけではなかったのです。着やすいし、着心地いいし、シンプルでデザインもいいし。

それに蒸し暑いこの季節。ユニクロの商品につけられている「DRY」や「COOL」という文字は本当に魅力的です。

ユニクロが僕は好きです。かつてユニクロは、安かろう悪かろうと言われて、よくない、ダサいファッションの代名詞でした。しかし、いまやその風潮は変わりつつあると思います。安くて、実用的で、そしてちゃんとデザインされています。そのシンプルなカジュアルウェアは、カラーも豊富で、組み合わせの種類も豊富です。

女性用下着のデザイナーとして知られる鴨居羊子さんは、カラフルでかつ機能的なナイロン素材のランジェリーを開発したことで知られています。身体にまといつくような不快をとりのぞき、動きやすいかたちのショーツなどもつくっているのだそうです。彼女は、当時主流として使われていたメリヤス製の下着に対して、このように書いています。

「実用的なことが同時に美しいというわけにはゆかんもんだろうか?」

実用的なことが同時に美しい。

まあ、美しいというのはおしゃれと同義ではありませんが……。

ただ、まさにこの言葉なんかは、ユニクロの製品の核をついた言葉だと思います。そして、これを実践する製品を開発し続けている企業こそ、僕はこれからのビジネスをひっぱっていける企業であると思います。例えば、Appleのハードウェアやユーザインタフェース、グンゼのBODY WILDなんかもその条件を満たしていますね。

さらにいえば、ここに共通するのは、もうひとつ、なにかの価値観を転換させる、ということかもしれません。

2010年6月25日金曜日

iPhone4がほとんど最高の進化だからこそ、Androidに期待する。

僕はまだ本製品を手にしていません。買う予定はいまのところはありません。そのうち職場の誰かが入手するだろうから、そしたらちょっと見せてもらいたいなと思っています。しかし、早速のレビューや感想を読む限り、予想通りの端末のようですね。

iPhone4、素晴らしい製品だと思います。

御存知の方は御存知の通り、僕はAndroid陣営を応援している人間です。しかし決してAppleを嫌っているわけではありません。素晴らしいメーカだと思います。iPhone4は優れた製品だと思います。

もしもあなたに相応の財力があるのならば、iPhone4を購入/機種変するのは最良の選択だと思います。

最も素晴らしいのはRatinaディスプレイ。

ケータイはケータイでしかなく、そのサイズには限界があります。ケータイ(携帯電話)という枠組みから外れることが出来れば、iPadのような製品も生まれます。しかし、この場合に僕たちが求めている製品はケータイであります。そうである以上、画面のサイズには制限があります。iPhone4は高精細のディスプレイにより、そのケータイ画面に表示できる情報量を「広く」できました。

しかしこの進化は、ここで限界です。

dankogaiも言っていますが、人間の視力にも限界があり、このRatinaディスプレイが紙と遜色ない画質を誇る以上、これ以上高精細にしても意味がないです。よってケータイ画面の進化はここでストップです。

唯一、進化の余地として残されているのは、3D技術くらいだと思います。しかし、3Dが要求するスペックと、ケータイに3Dを積む合理性が釣り合うまでにはまだ時間がかかるでしょう。

よって、現段階の技術におけるスマートフォンとして、iPhone4は現時点最高のハードウェア。これは過言ではないと思います。

さて、ここからが問題です。

僕には、いま、スマートフォンの要件とされているいくつかの条件の中で、iPhoneがこれ以上進化する余地があるように思えません。

単純な技術発展はありえるでしょう。カメラやビデオの性能が上がるとか、CPUの性能が上がるとか。あと、防水/防塵/バッテリーの伸びあたりは、欲しいところかもしれません。それから通信会社のイノベーションに対応するかたちでの進化、WimaxやLTEへの対応は予想できます。けれどそのあたりをのぞけば、スマートフォンにおけるイノベーションとしては、さしあたってここで打ち止め感があるのではないでしょうか。

そう、iPhoneのこれほどの進化は、ひとまずここで、いったん打ち止め。

けれど、スマートフォンにもうコレ以上の未来がないというわけではありません。

スマートフォンには、ケータイとしての進化が残されていると僕は思います。

それは、ガラケーへの進化です。

ガラケー化というと、あまり進化のようには聞こえないかもしれません。ですので、耳なじみのいい言葉を使ってこう言い換えてもいいでしょう。「ローカライズ」と。

赤外線通信や様々な電子マネー機能、ワンセグやといった、日本独自に発達してきた様々な機能を僕たちは既に生活の中に浸透させています。落としてなくしたときのロック機能や探知サービス、指紋認証。

これらが、Androidにはできて、iPhone(iOS)にはできないこと。

iOSの優位性として、ユーザインターフェースやデザイン、といったソフトウェアの優位性をあげられることが多いですが、これは、Androidが追いつける分野です。

ちなみに、"Froyo(android2.2)"に続き、"Gingerbread"の愛称で予定されているAndroid2.3では、特にそういったインタフェースなど、ユーザ体験の面での改良に着手するとのこと。2.1から2.2への短期間での進化で、劇的な速度改善が行われたように、2.3への期待は高まります。

なお、大きなニュースにはなっていませんが、宝石のように美しいインタフェースと賞賛されるwebOSのインタフェースをデザインしたMatias Duarte氏がユーザ体験ディレクタとしてGoogleのAndroidチームに加わったそうです。

現時点で確かにiPhone4が最高のスマートフォンであることを僕は否定しません。

しかし、もし頻繁な買い替えを予定していないなら、次の秋までまってみてはいかがでしょう。おそらくそのころには国内メーカが、Androidに少なくともひとつのローカライズを施した"ガラパゴススマートフォン"を出すだろうと僕は踏んでいます。

2010年6月24日木曜日

「新成長戦略」を読んでみる(2)

これの続きです。

3つめにくるのは「アジア経済戦略」です。

これについては、主張の大筋には同意です。しかし手段については反対です。

アジアでの経済戦略が、日本の経済を左右するということには同意です。ちなみに、個人的に僕の関心が向いているのは、海外市場よりも日本国内の市場です。とはいえ、内需と外需は両輪です。ですから、どちらがより重要であるということもありません。

ただ、日本はすでに素晴らしい商品を飽和させている国です。ですから、国内の需要を拡大させていくことよりも、外部に需要を頼るほうがイージーです。これはシンプルな話です。日本の製品を買いたい日本国民よりも、日本の製品を買いたいアジア諸国のほうが、市場規模も大きいです。ビジネスの相手として、本質的にはやりやすいはずである、と僕は考えます。日本人はすでに多くの要求を満たす素晴らしい商品に囲まれています。そんな日本人の要求に答えるよりも、アジア諸国の新興地域にモノを売るほうがやりやすいでしょう。問題はいかに安価に売ることができるかというところです。よってこの話題においては円相場についての問題が不可欠です。が、それはひとまずおいておきましょう。

政府主導で、産業界がいったいとなってアジアに向けた経済戦略をたてていく。この方針自体にはまったく異論はありません。アジアでの経済戦略を政府として支援する。実に素晴らしいことだと思います。

最近、日本の産業をガラパゴス的だと表現するのをよく見かけます。「日本の商品は日本向けの仕様に特化しすぎている」「独自の進化をとげた商品は国際標準にあっておらず、海外には売れず、海外の競争では生き残れない」というのです。

しかし、これについて僕は反論があります。明治維新のことを思い出してください。維新政府によるトップダウンの改革によって、日本は従来の鎖国的体質を一気に変容させました。アジアにおいてもっともスピーディな近代国家の樹立を成し遂げた、歴史上類を見ない奇跡的な改革です。四民平等といった近代的身分制度への転換、廃藩置県からはじまる中央集権国家の構築、グレゴリオ暦の導入による国際標準へのハーモナイゼーション。遠い東の島国でありながら、ここまで西洋の文化を取りいれて発達した国家が他のアジアにどれだけありましょうか。これのどこがガラパゴスでしょう。

確かに、産業の分野によっては、ガラパゴスが存在します。最も代表的なものは電波です。これについては経済学者の池田信夫さんをはじめとして、通信における多くの専門家がこの状況に変革を唱えています。僕も同意です。明らかにおかしい電波の割り当てと国際標準に沿わない電波の使い方を改めることは急務のはずです。

それだけが理由というわけではありませんが、無線端末(ケータイ)メーカーは、結果国内向けの無線端末販売に特化しました。そして、いくつかのガラパゴス的技術・仕様をケータイに生みだしました。たとえば赤外線による通信や、テンキーで文字入力をさせるハードウェアキーボードなどが代表的なものです。こういった技術は、確かに国際的には売れないでしょう。こういったものだけをもってガラパゴスというのであれば、確かにガラパゴスです。

しかし、別にメーカは国際的に通用しない技術ばかりを開発していたわけではありません。防塵防水端末の開発や、ソーラーパネルによる充電などの技術を無線端末に搭載してきました。これらを搭載した端末は世界的に見ても、十分に商品性が高く、かつ実に先進的な無線端末のはずだ、と僕は思います。

日本向けのガラパゴス的な仕様や技術は確かに存在します。ですが、「日本の商品が国際標準にあっていない」「海外で通用しない」というのは、僕は違うと思います。日本の商品はもっと海外に売れるはずです。

多くのアジア諸国よりも環境問題や都市化を経験してきた日本企業が、アジア諸国の経済成長に乗っかるようにしてビジネスをするというのは、まったくもって合理的だと思います。2020年を目標にしたアジア太平洋自由貿易圏(FTAAP)を構築するためのロードマップを、というのにも賛成です。

しかし、このアジア経済戦略において不安なのは、アジア戦略を口実に特定産業、特に一部の大企業や産業に対して、政府として過保護な支援を行なおうとしているのではないか、という点です。

この成長戦略資料には「スマートグリッドや燃料電池、電気自動車など」を「日本が技術的優位性を有している分野」として「戦略的な国際標準化作業をすすめる」とあり、食品などについても、「食品安全基準の国際標準化作業」を行う、などとあります。また、日本が強みを持つ「インフラ整備をパッケージでアジア地域に展開・浸透させる」などとあります。

果たしてその「日本が強みを持つ特定産業」のアジア進出を、日本政府が、さほど積極的に支援する必要があるでしょうか? 企業は馬鹿ではありませんから、当然、国が支援などしなくても、アジアでの競争戦略が肝要だということは分かっています。

というよりも、多くの賢い企業たちはアジア市場の開拓にすでに取り組んでいます。それを日本政府が過長に支援するのは、ただの特定企業・特定産業優遇でしかないのではないでしょうか。

長期的な目線で見れば、そこで特定の大企業・産業に対して保護的な政策をとることは、かえってその産業を衰退させることにつながると僕は思います。さらに、日本が産むそのほかの商品を軽視することだと僕は思います。

たとえば、ユニクロが生んだような安価で機能性が高いカジュアルウェアの開発だって、世界に通用する技術・仕様ですが、この「アジア経済戦略」においては、都市開発系の産業よりも軽視されるでしょう。

シンプルに言えば、「新成長戦略」の汚点は、ターゲティング戦略的な要素が散見されるというところだと僕は思います。

僕は、まずアジア経済戦略において重要なのは「アジアに出ることができる日本の技術や商品は、あらゆる産業の中に存在するということをまず認識すること」だと考えます。環境技術や都市開発などだけではありません。衣料品や食料品、金融商品やIT技術商品、それこそ小売の販売手法にいたるまで。海外で通用する日本独自のビジネスはたくさんあります。

日本には確かにガラパゴス仕様はありますが、それが逆に強みを持つパターンもあります。

たとえば、日本人の舌に合わせて開発された食料品は、確かにガラパゴス的かもしれません。しかし、そこがかえって日本的な商品性として、海外で高く評価される可能性は非常に高いと思います。

たとえば、販売手法でもそうです。回転寿司のベルトコンベアもそうです。これは寿司という日本独特の料理・食事にあわせて開発された食事の提供方法です。しかしこれが国際標準でないことこそが、日本独自の商品性として評価されるわけです。

日本の四季にあわせて繊維の開発を繰り返したユニクロの衣料品も、そうです。機能的なカジュアルウェアとして海外での評価を、順当に獲得していってます。

政府の戦略として必要なのは、アジアでの自由貿易圏を構築するにあたっての外交努力程度でしょう。日本企業が他の国家の企業に対して、不利益な貿易協定を結ばされないように努力する、といった程度のことだと思います。

例えば、先日、中国で人民元の弾力化が行われました。人民元の上昇は中国の購買力を高めて、豪ドルなどの資源国通貨を押し上げると見られているため、中国政府はいずれ外貨準備の構成通貨を調整すべきだという声が出ているのだそうです。

僕は金融の専門家でないので詳しいことは把握していません。が、日本政府はこういったアジア諸国の経済政略について、ちゃんと外交の中で、声を発していってほしと思います。こういうことが本当の「アジア経済戦略」なのではないかと思います。

さらにいえば、必要なのは法人税の引き下げや解雇規制などの政策だと思います。単純にアジア圏において日本のビジネスの成長を促したいのであれば、まず、日本国内のビジネス全体に対して、競争を後押しする政策が必要なのではないでしょうか。

以下、次回「新成長戦略を読んでみる(3)」に続きます。

2010年6月22日火曜日

ブクログがはじめた電子書籍プラットホーム「ブクログのパブー」がすばらしい。

電子書籍とか取り組んでる出版社で、しかもまさにその事業部でバイトしながら、他の電子書籍プラットフォームをべた褒めしてもいいのか疑問ではあるのですが。

それでも「ブクログのパブー」がとっても素晴らしい電子書籍のプラットフォームになりそうなので、ご紹介します。

ブクログのパブー
ブクログをそもそもご存じない方のために解説しますと、ブクログは、自分の読んだ/読みたい/読むつもりの本を、ネット上の架空の本棚で管理し、自分の読んだ本の書評を書き込んだりすることができるサービスです。この手のサービスは他にもありますが、ブクログはそのサービスの系統の中でも、ダントツで利用率の高いサービスです。28万人のユーザのクチコミがここには存在します。

僕も実は以前から利用しておりまして、ブックレビューやミュージックレビューなどを拙速ではありますが公開しております。ブログのサイドバーにリンクを貼ってありますので、もしよければ僕の書評を読みに行ったりしてみてください。ここ経由で購入した書籍も数冊ありますね。

電子書籍が紙の書籍を代替する、といった話がここ1年の間で特に強く語られるようになりました。これは、iPhone4によって世に出るRatinaディスプレイや、Kindleに搭載されているEink、強力なCPUを搭載した無線端末の登場など、特にハードウェア面でのめざましい技術発展がもたらした結果だと思います。

電子書籍においてよく語られるのは、著者と読者のあいだにある複数の中間ビジネスの話です。編集や印刷、宣伝や販売といったビジネスですね。

現在の多くの書籍は、出版社が、印刷会社や書店と提携したうえで「編集・印刷・宣伝・販売」を著者に対してパッケージで提供している、と考えることが出来ます。これと引換に、著者は販売利益の多くと版権を出版社に支払うのだ、という見方です。

これらが出版社の外で代替可能になり、その外部での代替コストがさがればさがるほど、著者は電子書籍の利益をより手元に残すことが出来るようになります。

ブクログのパブーは、その代替コストを大幅に下げることが出来るプラットフォームです。しかもそれらをパッケージで効率的に提供しています。

より望ましいのは、パブーに編集者としてユーザ登録ができるようになることではないでしょうか。フリーの編集者が、パブーで編集者として著者にアクセス出来るようになり、信頼性の高い編集者による編集が、より販売能力を高めます。著者もこれを使ってプロの編集に編集を頼めるといいですね!

nanapiのような編集機能が、編集者として登録しているユーザーに向けて、クローズド、あるいはオープンに提供されるといいかもしれません。

以下、参考URL。

ブクログ
http://booklog.jp/

ブクログのパブー
http://p.booklog.jp/

パブーでの僕のプロフィールページ
http://p.booklog.jp/users/masafiro1986

パブーをリリースしました!
http://blog.mochivation.com/?eid=187

ペパボのプレスリリース
http://www.paperboy.co.jp/news/201006221410.php

追記

無名の書き手の立場から見た「パブー」のことを中心に書きましたが(電子書籍化によって一番わかりやすく恩恵を受けるのが無名の著者だと思うので)、パブーは読者にとってもとっても魅力的なプラットフォームだと思うです。

ブクログを通じて読者に声を届けられるし、電子書籍では味わえないと思っていた、書籍を所有しているという感覚がブクログの本棚で味わえるわけです。しかも、ひとに簡単に見せられる!

2010年6月20日日曜日

横書きにやられてしまったみたいです。

僕は小さい頃から本の好きな子どもでした。小説が好きになったときのことは、ブログに以前書きましたが、その兆候は子どもの頃からあったようです。文字がとても好きだったんですね。そういえば、まだ五歳や六歳くらいの子どものころの記憶で、はっきり残っているもののひとつに「あいうえお表」があります。ずいぶんそれを繰り返し見て、眺めて、覚えて、文字と言葉を使えるようになろうとした記憶があります。

言葉の音との関係のことを僕はよく考えていました。

「『か行』の音は規則的なのに『た行』はちょっと違う気がするなあ。た、てぃ、とぅ、て、と、のほうが音の流れで自然な気がする。『だ行』の『ぢ』は『でぃ』っていう音のほうがいいんじゃないかなあ。」

そんなんでしたから、小学校3年生の頃に、母からワープロのキーボードを教えてもらい、ローマ字を知ったときは、そのモヤモヤがぶわあっとひらけたような気がしました。

幼稚園のころに僕が書いた絵が、二十歳を過ぎてからのあるとき、実家の押し入れか何かから出てきました。それをみて母はいいました。

「まさひろの絵は、よく文字が書いてあるんだよね。注釈がついてるの。八百屋の絵には『やおや』とか、学校の絵には『がっこう』って但し書きがついてる。」

言われてみれば僕の書いた絵の多くには、どこかしらに文字が書いてありました。たぶん、文字の伝えられる力みたいなものを、子どもながらに感じていたんじゃないかな。といまになってみると、思います。

さて、そんなふうにして本をよく読むようになった僕なのですが、最近、たまに本をよむのに疲れを感じてくるようになりました。あれあれどうしたんだ僕、とずうっと不思議に思っていたのですが、ようやくその正体が分かりました。

インターネットでブログを読んだりするのはすごく楽しいのに、なんで本を読むのにこんなに疲れを感じるんでしょう。それでもやっぱり本は好きなので、たぶんそこそこは読んでいるのですが、やっぱり昔よりずっと疲れる。それをここのところ、なんども不思議に思っていました。内容がつらいのではないのです。すごく面白い本でも、やっぱりちょっとつかれてしまうのです。けれどつい先日、つかれる本とつかれない本の違いに気づきました。

縦書きが苦手になってしまったのです。

あまりにもネットやメールで横書きに慣れてしまって、生活の多くを横文字に満たされてしまっているので、縦書きがちょっと苦手になってしまったのです。

これには自分でも驚きました。

なにせ小さな頃から本好きでしたから、それなりに縦書きの本に対する愛着が自分にはあると思っていたのです。特に小説は縦書きでなくてはならない、とそんな思いをどこかで共有していたような気さえします。しかし身体は正直というか、すっかり横書きに僕は慣らされてしまったようなのです。

そんなわけなので、実は電子書籍に僕はこの点でちょっぴり期待しているのです。できれば、デフォルトが縦書きでも、横書きにして読めるようなかたちで出版されることが多かったらいいなあと。

ただやっぱり小説などは縦書きで、という思いがちょっとあるのも事実です。たぶん横書きだと身体というか僕の眼には読みやすいのですが、気持ちが何だか横書きをやんわり拒否してしまうような気がします。

「新成長戦略」を読んでみる(1)

18日、菅首相が打ち出した「強い経済」への道筋として「新成長戦略」が打ち出されました。そのなかに「法人税の引き下げ」という項目が盛り込まれました。現在約40%の実効税率を、段階的に25%程度まで引きさげるそうです。僕は引き下げに賛成です。

25%といわず、もっともっと下げていただきたい。シンガポールは10%です。日本とシンガポールの法人税が両方10%になれば、たぶん、シンガポールに拠点を置いていた企業が、けっこう東京に流れてくると思います。だって東京、めっちゃ魅力的な都市だもの。

もちろん、シンガポールからだけではなくて、法人税の高さが障壁となって、日本進出をためらっていた外国企業がはいってくると思います。学生のみんなには嬉しいことに、人気の外資系企業の就職先が増えるかもしれませんね。

法人税って高いですよね。実効税率40%って、相当ですよ。法人税は会社の利益にかかります。売上高から、経費を引いた金額にかかるわけです。それだけの利益を国にもってかれちゃう。これはつらい。不況だ不況だ、と騒いでいる企業も、法人税の引き下げは、嬉しいでしょうね。ちょっと余裕が出て、新しい人雇おうかな、なんて言い出すかもしれない。就活中のみんなには嬉しいですね。

さて、この新成長戦略。せっかく政府のウェブサイトPDFがアップロードされていたので、読んでみることにしました。でもこれすごく長いです。しかもなんかわかりにくい。全部読むのはぶっちゃけつらいです。

なので15ページあたりから見出しと小見出しだけ拾っていって、気になった見出し・小見出しだけ読み込んだらいいんじゃないかなと思います。ただ、この見出し・小見出しのつけかたも大変へたくそなので、やっぱりわかりにくいです。

というわけで読んでみましょう。

最初にくるのが「グリーン・イノベーションによる環境・エネルギー大国戦略」。

僕の評価としてはこれはNGです。

っていうか、このグリーン・イノベーションってなんでしょう。

この手の政策で思い出すのは、エコポイント。あれ、ちょっとわけわからなかったですよね。僕、エコポイント制度ができた直後に冷蔵庫買ったんで、エコポイントもらいました。まあ結構、オトク感はありましたね。でも、実際、その冷蔵庫買ってから、冷蔵庫たくさん使うようになって、電気代も増えたし、たぶん環境にはよくなかったと思います。

このエコポイントって、要は車や冷蔵庫買う人のほうが車や冷蔵庫買わない人よりエコってことになってて、それってどうよ、と僕は思っていました。本当にエコって言うなら、もっとちゃんとエコやってるひとにエコポイントあげなきゃダメですよね? 車持ってないひととか、夜中のコンビニいかないひととか。

で、実際、今回政府が打ち出しているのは「環境コンシェルジュ制度」。各家庭にたいしてアドバイスをするコンシェルジュを制度化するみたいです。各家庭って……。どんなふうになるのかはまだ僕よく知らないんですが、家庭訪問でもするのでしょうか。そしてエコ企業の商品とかをオススメするとかかな。だとしたら、なんていうか、余計なお世話だなあ、という感じです。そのほかにも色々やって、環境事業での新規雇用を増やす戦略みたいです。

僕はエコって別に嫌いじゃないんですよ。環境は大事。緑とか、やっぱ必要。公園とか街路樹とすごく大事。僕は、そういうところに国がお金を出したり、ルールづくりをしたりするのはいいと思います。緑化事業とか。排出ガス抑制とか。

でも、エコって、基本的には経済活動とは相反するものだと思うんですよね。だからある程度、経済成長を阻害しちゃうこととかも覚悟したほうがいいと僕は思います。もちろん、経済成長と同時にやれるものならやったほうがいい。けれど、グリーン・イノーベーションなんて、ウマイ話がうまくいくようにはちょっと思えないかな。

僕が代わりに提案したいのは、「炭素税」。ただ、産業界からの反発は強いようです。冒頭にあげた法人税の引き下げと引換えに立案したらどうでしょうか。

次に来るのが、「ライフイノベーションによる健康大国戦略」。

僕の評価としては、微妙。

医療や介護を、経済成長のためのひとつの成長産業だと捉えることには反対しません。そしてこの分野に多くの雇用を確保するというのにも、とっても賛成です。僕のゲイの友人は有料の老人ホームで、介護職をしているんですが、いつも夜勤とかが多くて大変そうです。なので、人手がもっと増えて、介護や医療の仕事がもっともっと、働きやすくて環境のいいものになってほしいです。

けれど、この項目に書いてあることのほとんどは、具体性があんまりありません。しかし、まだ管内閣が成立してまもないので、具体的な戦略をすぐに用意できなかったということかもしれないので、まだちょっと様子を見てもいいかな、という感じがします。

ひとつ不安な項目は「バリアフリー住宅の供給促進」です。なんだか先ほどのエコポイントに近い匂いがしませんか。バリアフリー住宅にリフォームしたらバリアフリーポイントがついてくる、みたいな。そういう類の政策なら僕は反対です。バリアフリーはめざしたほうがよいと思うのですが、それのための努力は各業界に任せた方がよいかなと思います。そこで住宅業界を無駄に保護などして、不当に儲からせるのは違うように思います。

具体的に医療と介護を成長産業にするにはどうしたらいいんでしょうか。

僕は、単純に福祉や医療のサービスの価格をもう少し高くしてもよいとおもうんですよね。本来、医療も福祉もすごく価値のあるものです。もっとそれなりのお金が支払われるべきかなと思うのです。

確かに、病気にかかって医療費が莫大で生活できなくなる、なんていうのはやっぱり国が阻止したほうがよいと思うので、そこを国が保険などで安価に保証するのはよいかと思います。

しかし、たとえば、高齢者への医療・福祉をここまで安価にする必要ってないと思うのですよね。年代別の個人金融資産残高などを見ると、やはり高齢者は相当の金融資産を抱えこんでいます。そこに安価なサービスをこれ以上安価なままで供給するのは違うんじゃないでしょうか。

それよりも、高齢者たちからある程度お金をとって、そのぶん、医療や福祉のサービスを充実させたり、従事者の働く環境をよりよいものにしていくほうがよいのではないでしょうか。高齢者のみなさんたちにとっても、従事するひとたちが働きやすく、もっと楽しく働くようになって、老人ホームや病院が明るくなったほうが、きっといいと思うのですよね。お金より、そっちのほうが大切でしょ。

僕たちが高齢者になったときにもちゃんと病院や施設、機能していて欲しいですしね。

だからちゃんと成長戦略としてこの項目が盛り込まれたこと自体は、評価していいかなと思うのですが、まあ、これからをもうちょっと見守る感じですかね。

さて、そのほか新成長戦略にはぜんぶで21項目あります。21世紀だから21でいいじゃんとか思ってそうですね。多すぎるので、ちょっとひとつの記事では書ききれない感じです。なので、続きはまた「新成長戦略を読んでみる(2)」で。

なんかちょっと難しい話しすぎて、頭痛くなってくるので、反動で明日あたりイケメン萌え記事とか書きたいです。

2010年6月16日水曜日

憧れの新婚生活。

Prop8ってご存じですか?

カリフォルニアで同性愛者の結婚に反対する団体がカリフォルニア州憲法の修正を求めました。内容は「結婚を男女に限るものとする」というもの。カリフォルニア州憲法は51%の賛成があれば修正が可能となっています。この修正案のことを、Proposition8(略してProp8)と呼びます。

で、この州憲法改悪案に反対し、同性愛者を支持するYoutubeユーザが投稿した映像が話題になっています。今日はそれを紹介します。



動画は英語ですが、しかし英語が分かる必要はありません。僕も何言ってるかはわかんなかったです。

動画では結婚したふたりの男性カップルの様子が描かれます。これは男女のカップルにおきかえても成りたつ映像だなあと思います。日常の結婚生活における「あるある」なシーンをいくつか描いています。

やっぱり憧れますねー。現状、結婚できないぶん、余計結婚には憧れちゃうのかも。

まあ結婚とかいうまえに、そもそも彼氏作れよという話なんですが。

追記ー
ところでこのProposition8なんですが、GoogleとAppleが反対表明を出しています。通常シリコンバレー企業は政治的な争いに首をつっこむのを嫌がるそうですが、この件に関しては社を挙げて反対を表明したのだそうです。嬉しい話ですね。

2010年6月14日月曜日

有名になる前から好きだったんだ!

有名になる前から好きだったんだ! って主張したくなることってありませんか。僕はあります。いくつかあるんですが、そのひとつが、志方あきこさんという女性シンガーソングライターの存在です。

志方あきこさんは、多重録音によるコーラスワークと民族音楽風の楽曲でしられるシンガーソングライターです。有名なところだと「うみねこのなく頃に」の主題歌を手がけていらっしゃいます。彼女の音楽を聞いたことのないかたは、ぜひ聞いてみてください。これはわりと初期の方に発表された彼女の代表曲「MARE」です。


僕がはじめて志方さんを知ったとき、志方さんはWEB素材としてmidiファイルを頒布している音楽素材サイトのオーナーでした。いまでもその素材配信は残っていますが。いま志方さんの公式ウェブサイトであるVagrancyは、昔は音楽素材の頒布をおこなっている素材サイトだったのです。

当時はテキストサイト全盛期で、僕も実はちまちまとウェブサイトを作っていました。僕がHTMLだのCSSだのを勉強したのは、実はそのころです。まあ、そんな話はどうでもよくて、要はそんなに昔からこの人のことを知っていたんだよ! と主張したいわけです。

僕は志方さんの音楽を知るなり、すぐに気にいって、自分のつくっていたテキストサイトを表示するとその音楽が流れるようにしました。昔はよくありましたよね、開くと音楽が流れるウェブサイト。まあ、一部にはいまでも存在しているんですが。初期に頒布されていたのはいわゆるオルゴールタイプのmidiファイルで、すごくシンプルなものではあったのですが、それでもそれだけで十分に聴きごたえのあるものばかりで、夜中にひとりで染みいるように聴きこんでいました。

http://www.vagrancy.jp/other/material/sozai/sozai_2.htm
これの「NOTTE」とかが超好きでした。

志方さんは素材サイトの活況とともに、MP3による楽曲を発表しはじめ、自主制作によるCDの発売をはじめました。このとき、僕はまだ中学生。ものすごくCDが欲しくて、なんとか手に入れるすべはないかと、志方さんの通販サイトと毎晩のようににらめっこをしていました。当時、インターネットで物を購入するなんてことはまだ当たり前のことではなく、親を説得できなかった僕は泣く泣くCDを諦めたのでした。結局手にいれたのは、上京してからのことです。

そんな志方さんがいまやプロとして音楽で活動していらっしゃる。当時は、想像だにしませんでした。僕にとってこの志方さんの軌跡は「インターネットからプロが生まれた」のをみたはじめてのケースでした。

今やニコニコ動画など、インターネット発のアーティストなどは珍しくもなんともありません。しかし、僕がまだ中学生の頃、それはまだ身近にある話ではありませんでした。だからかえって、僕は未知の才能を自分ひとりで探し当てたような錯覚を味わっていました。

そういえば、幼稚園のころの夢は「うちゅうひこうし」だったなー。

中学校のころとかは全然理科とか好きじゃありませんでした。成績悪かったし。

高校にいたってはほぼ未履修というゆとりです。なので、理科ってそんなに詳しくもないのです。しかし最近、理科、今さら好きです。科学オモシロイ。でんじろう先生の動画とかみてウハウハしています。生物、物理、化学、地学。どれもこれもオモシロイ。ちゃんと勉強しようとかは別に思わないんですけど、こういうのって見てるだけで楽しいです。

僕のバイト先には本がたくさんあって、時間がある時には好きに読んで良かったりします。そこで最近ちょこっと手のあいたすきに読んでいるのがこの「いまさらきけない化学の疑問」。どうですかこの不機嫌そうな表紙。「なんかもうめんどくさ~いだる~い」って感じで、化学の疑問とかどうでもよさげな表情です。


左巻 健男
技術評論社
発売日:2009-05-26

でもまあ表紙はともかく中身はちゃんと面白いんです。

紅茶を冷蔵庫で冷やすと、渋みが出る「クリームダウン現象」というのがあります。これは、紅茶の主成分であるタンニン酸とカフェインが、冷やされることによって結合し、水に溶けない固体粒子になることから起こる現象だそうです。それが舌の上で温められて溶けるときにタンニンのつよい渋みを感じるから、あんなに渋くなるんだそう。

こうして考えるとなんで理科や数学ってちいさなころに苦手だったんだろう、と思います。数学も同じなんですよ。数学についての雑学とか聞いてるとすごく楽しい。なのに中学の頃とかは、まるで出来なくって。証明問題とかは確か好きだったけど、なんでだろうか、何故か苦手科目だったんです。

今進んでいる道を後悔しているというわけではないんですが、理系の道を歩んでいたらどうなってただろうな、ということをふと思うときがあります。

昨日のはやぶさ、僕はリアルタイムで見ていました。すごかったですよね。ロマンです。宇宙すごい、ロケットすごい、はやぶさすごい、技術者たちかっこいい! ってぞくぞくしました。

技術が進む道って本当にロマンでいっぱいだと思います。未知の生物や未知の物質、未知の惑星や未知の実験。知らないことやまだ見ぬものに挑んでいく姿は、パッと見地味かもしれないけれど、もんのすごくカッコイイ。どこそこの研究室がなんとかという実験に成功した、なんていうニュースは、たまにそういえば見るけれど、ああいうところにもきっとドラマがあるんだろうな、と想像してしまいます。

ただ、まあ、もちろんそういうロマンがあることばっかりじゃないんでしょう。大変なこともいっぱいあるんでしょう。あと未知に挑むものばかりが、科学や技術や理科系じゃないとも思います。

けれど、はやぶさを見ててやっぱり、思っちゃいました。うらやましいなあ、僕もこんな道を進んでいたら、こんな人類の偉業に携わることができたのかもしれないなあって。まあ、今から追いかけるほどの熱量は、今の僕にはないのですけれど。なにかさしあたってそこに夢があるわけでもないし。でも、昨日は結構ココロ動かされました。

やっぱり物語が美しいですよね。失敗と挑戦を繰り返して、ようやく成し遂げたっていうさ。まあこのへんで「物語」とか持ち出しちゃう次点で僕は文系なのかなって思いますけれども。


こうやって、ちょっぴり感動だけシェアさせてもらっちゃうのは外野の特権かもしれませんね。これは実際に携わっているひとたちからしてみるとどう映るのかは分からないんですが、でも、昨日の夜ははやぶさのおかげで僕はすごく楽しかったです。人類ってすごいなあって感涙してしまいました。

おかえり、はやぶさ。

2010年6月13日日曜日

メガネ男子っていいよね。

メガネをとったら実はイケメンだった/美少女だった! っていうのは古典漫画にありがちな展開ですが、むしろメガネかけるとイケメンだったり美少女だったりすることの方が多いなあと思ったりします。

「今日コンタクト落としちゃって……」とか「なくしちゃって……」とかいって、ある日突然現れるメガネくんに恋したことは今まで何度あったかと。黒ぶちメガネ最高です。もう伊達でいいからかけてほしいです。目の保養したいんです。実名でこんなこと書いてる自分が最近怖いです。

先日、二丁目のクラブ "ArcH" で、メガネナイトなる何だかまた素敵な名前のゲイナイトがありまして、僕のゲイ友だち連中はtwitterで前日からその話題をしていました。しかしこのゲイナイト、毎回いつも水曜日なんです。僕が通っている某ゲイバーの営業日も水曜日。だから行けないよね、と僕は思っていたのですが、授業を終えてそのゲイバーに出かけていくと、いつもいるはずのメンツがいない。おかしい。聞いてみると俺をおいてメガネナイトに出かけていました。友情なんて……!!

メガネ男子といえば、一時期は特集本が出版されるくらいに猫も杓子もメガネ男子みたいな時期がありましたが、あのブームはどこにいってしまったんでしょう。タレントが実はメガネ男子だったみたいなのもあったりしましたが、みんな結局活動するときは外してしまったりしていて。結局、おぎやはぎとオリラジ藤森くらいしか残ってない感じがします。まあ、最近テレビみていないので、そのあたりのこととか実は全然わかってないんですけど。佐藤健はメガネかけてほしいです。コンタクトレンズなんか滅びてしまえ。

アスペクト
発売日:2005-09-15

なんでコンデジにはインカメラがついていないの?

写真って面白いですよね。

僕はアート系の写真も好きですし、そうでない日常的な写真も好きです。アナログ写真も好きだし、デジタル写真も好き。きれいな写真に見とれることもあります。アホらしい写真も大好き。うまく撮れていなくてもブレブレでも、ケータイカメラで撮った思い出の写真は大好きだし、小さな頃に撮ったアルバムの写真も好き。ヒトの映った写真の方が好きなことが多いんですが、そうじゃない空の写真や建物の写真も好きです。廃墟の写真集なんていうのも実は大好きだったり。

ちょっと前の話になるんですが、二丁目友だちと一緒に、表参道でやっていたレスリー・キーの写真展を見に行きました。レスリー・キーはファッションや広告、CDジャケットなどの仕事を中心にやっているシンガポール出身の写真家で、知っている人も多いと思います。浜崎あゆみのジャケット写真やカレンダー写真の多くは彼が手がけているらしいですね。コマーシャル・フォトのプロフェッショナルというわけです。

このYoutube動画はその写真展の様子。多くの有名人のヌード写真はやっぱり皆の話題でした。僕は三浦春馬くんを目当てに行ってたのですが、彼は顔写真だけでした。みんな脱いでんのに!


彼は写真家ですが、彼の技術は写真を撮影することだけではないのだそうです。たとえば写真を加工することもまた彼の技術。Photoshopを使いこなし、狙う作品にしたてあげる。レスリーの写真にうつる人たちの肌の美しさはすごいです。多くの人が彼に撮られたがるのも無理はないと感じました。フォトショすげー。レスリーすげー。

Photoshopといえば、先日CS5がリリースされましたね。もはや神。日本にはヤオヨロズの神といっていろんなところに神様が宿っていると考える文化がありますが、このへんにも宿っているのではないかし。

ところで、最近コンデジ(コンパクトデジタルカメラ)が欲しいなあと思っているのですが、なんでコンデジにインカメラって搭載されていないんでしょう?

インカメラってすごい発明だと思うんですよね。ケータイには主に自画撮りのためにインカメラがついているのがいまや普通だったりしますが、これってコンデジにもつけていい機能じゃないんでしょうかねえ。

みんなで一緒に写真とろうってなったときに、誰かひとりがカメラマンに回らなきゃいけないのを回避する素晴らしい手立てだと思うのです。

2010年6月11日金曜日

英語話せないと国際同性婚できません!!(イギリス)

同性愛者ならば、きっと誰でも一度は同性結婚のことを想像するんじゃないでしょうか。ムリムリ、なんて思っている人も、きっといつかは、と思っている人もいると思いますが、僕は後者です。いつかは同性結婚したいし、出来るならば国内で、と思っています。

けれど、実際日本でその制度が出来るまでにはまだまだ時間がかかりそうです。そもそも国会で議論されてすらいない感じですもんね。確かにこのあいだのLGBTweekのような取り組みが政府サイドの後援で行われたりしてきています。このあたりは同性愛者の権利に対して積極的な社民党が、先の政権交代で躍進したことの影響も強いのでしょうか。しかし、それにしても、今おそらく国民にとって最も広く関心を集めているのは経済問題。僕は同性結婚制度や同性パートナーシップの制度設計に着手することも一種の経済対策になると思ってるんですけどね。

そんなわけで、国内の事情はしばらく動向を見守るほかなさそうだという感じではあるのですが、一方、海外では同性愛者の権利について日夜さまざまな動きが起こっています。そのあたりは各所のゲイニュースサイトなどで報じられている通りで、特に「みやきち日記」さんや「GAY LIFE JAPAN」さんあたりなんかが定期的にニュースを紹介しています。

僕は最初このブログをはじめるときに、そのような海外の同性愛関連ニュースも扱おうかなと考えたのですが、やめました。まあ、今後扱う可能性はないとはいえませんけれどね。扱わないことにしたのは、単純にネタがかぶるからという理由もあるんですが、それを僕がやると、単なるニュースのコピペにおわってしまいそうだなと思ったというのが大きいです。だったら僕のブログでやる意味あんまり感じられないですし。

というわけで僕が扱うニュースネタは「いっけん同性愛と関係なさそうなニュースを、同性愛者視点から読み解く」感じでいこうかなと思っています。そんなわけで今日は、若干海外ネタよりなニュースをひとつ。

英国、欧州域外からの移民に英語試験を義務化
http://www.cnn.co.jp/world/AIC201006100015.html

イギリスといえば、同性間でのパートナーシップ法が制定されている国です。今回制定されたこの英語試験の義務化は、同性パートナー、同性カップル、同性フィアンセの移住者、いずれにも異性愛の配偶者やパートナーと同等に課されるようです。

というわけで、イングリッシュ・ジェントルマン/レディーにあこがれを抱くゲイレズビアンのみなさん、英語ちゃんと勉強しなきゃいけないみたいですよ。Google翻訳に頼りきりな僕はどうやら弾かれてしまいそうです……。まあ、僕、外専じゃないんですけどね。知らない人のために解説すると、外専っていうのは、ゲイ用語で外国人好きという意味です。僕の友だちにも結構います。

僕、実は高校は英語科出身なのです。それでイギリスにホームステイしたことなんかもあったりします(修学旅行、イギリスでした)。そのころの僕はわりかしそのへん度胸があったという理由からなのか、英語でコミュニケーションとか得意なヒトでした(わりと得意科目でした)。しかし、大学に入ってから、まともに英語の授業をとったことが今の今までなかったんで、最近久々に英語の授業を受けてまして、自分の語学力の衰えに愕然としています。やっぱこれからの時代、英語は、やっぱりしゃべれたほうがいいですよね……。

ちなみに……

僕は、この英語試験義務化政策について「一長一短だよね」と思っています。そしてどちらかといえば弊害のほうが多いと思っています。

この政策のよいところは、英語試験の義務化によって、英語の流暢な優れたビジネスマンが流入することが見込まれるところだと思います。反対によくないところは、移入してくる外国人がみな英語を話せることで、イギリス人の他言語学習意欲をそいでしまうところです。

この類の問題は実は日本にもあります。例えば、外国人介護従事者や外国人看護師などを受け入れる制度の問題です。現在の制度はあまりに厳しすぎる、というのが僕の所感です。この問題についてはまた後日改めて、取り上げたいなと思っています。

ところで、英語つながり(強引)なのですが、僕の友人で、アメリカ人と日本人のハーフのデブ専ゲイの@hyoshitoが、ゲイの作家・伏見憲明さんの最新作「団地の女学生」のPVをとりました。

一種の前衛アートだと思います。よければみてください。


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「団地の女学生」ぜひお買い求めください。

伏見 憲明
集英社
発売日:2010-04-05