2010年7月31日土曜日

じぶんに似合っていれば、それでいい。気持ちいい。

よくゲイ、というか、セクシャルマイノリティたちの人たちの言葉の中には「多様性」ってことばが出てきます。僕はこの多様性を尊重したいと思うし、まあ、それなりに出来ているつもりなんですけれど、最近これについて思うことがあります。

ゲイ、バイセクシャル、レズビアン、ノンケ――みたいな性的なくくりに限らず、金持ち、貧乏人、社長、平社員、フリーター、イケメン、美女、ブサイク、デブ、眼鏡、オタク、女装、そのほかあれやこれや――。みんなそれぞれ、色んな個性を身にまとってる。そんななかでいったい何が大事なんだろうって考えたとき、「似合ってるかどうか」なんじゃないかなって思うことがあるんです。

そして、その「似合ってる」っていうのは人の価値観で決めるんじゃなくって、自分の価値観で決めるものかなあと思うんです。これがたぶん、似合っていないとつらい。

僕はいま周囲にオープンにしているゲイなんですけど、こういう振る舞いが自分にとっても似合ってるって思ってます。あと、僕はデブなんだけど、デブだって言うのはネタにしちゃうのが僕には似合ってるのかな、なんて最近思っています。

いろんな振舞い方があって、それがちゃんと自分に似合っていれば、とっても気持ちいい。それが、最近僕が分かってきたことです。こうやってブログを書くのも、ようやく最近僕にも似合ってきたんじゃないかなあって思っています。

好きなことをして生きればいい、というのはまったくそのとおりだと思うんですけど、そしたら、好きなことをしているその振る舞いが自分に似合うように、模索していくのがいいと思うんです。

そして「似合う」っていうのは、「慣れ」でもあります。ので、繰り返し続けていくことで、似合うっていうこともあります。最初は似合わないかもしれないなって思うことにも、チャレンジしてみて、それを「着こなせる」ようになると、とっても気持ちいいです。着こなさなさそうだったら、方向転換です。

僕の友だちに桃井アロムっていう女装がいて、最近、やたらブログで彼氏の話ばっかりしています。それまでは不幸女装みたいなキャラで売ってたので、彼氏ができたらきっとつまらない女装になっちゃう、みたいなことを当初は言ってたんですが、最近はすっかりキャラチェンジに成功した感じです。純男彼氏持ちの女装、っていうのが、なんか似合ってきちゃってるんですよね。

2010年7月27日火曜日

つくることをになえなければ、パイは分けられない

音楽にしても、文章にしても、そう。電子出版や音楽業界の動きを見ていると、結局はこういうことなんではないかと思うのです。もはや繰り返しなんども語られていることなのですが、ちょっと自分の認識をシンプルにまとめておきたいと思います。

インターネットを通じてプロアマ問わずに表現できるようになったことで、参入障壁がさがり、人々の時間を奪い合う競争が加速しました。通信によるコンテンツ配給の合理性が人々の間で認められ、パッケージの価値が暴落しました。これらの結果として、文章や音楽の販売によるビジネスのパイは減少しました。

ビジネスのパイが大きかった頃は、文章や音楽をつくるひとたちに、くっついて仕事をすることが、ある程度認められていました。しかし、これからそういうわけにはいかなくなってくるでしょう。彼らつくり手たちから、分けてもらえるお仕事は減る一方です。つくることを担える人にならなければ、自分でつくりだしていかなければ、パイを食むことはできなくなっていきます。

作家による電子出版、ミュージシャンによるインターネットライブ。これからますます、コンテンツビジネスは、自分で産み出すひとたちだけのものになっていく。

それがいいかわるいかではなくて、たぶん、ただそうなのだろうなと、思います。

2010年7月26日月曜日

借りぐらしのアリエッティ・評(ネタバレなし) 現実から価値を引き出す力、覗き込めば世界は広くなる

先日、仲良しのゲイ友だち3人組で、「借りぐらしのアリエッティ」を観てきました。僕としては、たいへんに「もったいない」感の残る作品でした。

以下、特にネタバレはありませんので、鑑賞前に読んでいただいても大丈夫だと思います。先入観を持つことの良さも悪さもあると思います。

未見の方は、ご自分の判断で続きをお読みになってください。

借りぐらしのアリエッティは、床下の小人という架空の存在を描いたという点でファンタジーです。ファンタジーといえばジブリのお得意とするところ。いままでにもたくさんの夢ある物語を提供してくれたスタジオジブリ。僕はその夢のようなファンタジーを期待してこの作品に臨みました。

しかし、実は、まず、そこがこの作品の大きな罠なのです。架空の小人たちの不思議なファンタジー世界を描いた作品――かと思いきや、違う。確かに小人という存在はファンタジーですし、そのこびとたちの暮らしを描いてはいます。しかし、この作品についてはこのように言い換えるのがよろしいかと思います。

これは「小人の目線を通して、卑近な現実世界を覗き込んで描いた作品」です。

だから、ちょっと一般的な「ファンタジー」としては捉えにくいところがあるのです。

先日の記事でも引用しましたが、スタジオジブリ発行の小冊子「熱風」のなかで、iPadを利用して情報収集をするというインタビュアーを、痛烈に批判しました。

あなたの人権を無視するようですが、あなたには調べられません。なぜなら、安宅型軍船の雰囲気や、そこで汗まみれに櫓(やぐら)を押し続ける男達への感心も共感もあなたには無縁だからです。世界に対して、自分で出かけていって想像力を注ぎ込むことをしないで、上前だけをはねる道具としてiナントカを握りしめ、さすっているだけだからです。

宮崎駿がここで批判したのは、現実から価値を引き出す「つくりだす力」のなさ、だと僕は捉えました。

みずみずしく雨をはじく大地。葉脈をたぎらせる草花。生い茂るツタ。光りを反射してつややかなダンゴムシのねずみ色。床下の薄暗さや、尖ったまち針のなめらかさ。窓ガラスの鍵の、こすれた反動の力加減。ローリエや紫蘇の香りの芳醇さ、両面テープの粘着するノリの引き具合、水滴ひとつぶひとつぶの豊かさ。

自分の目を通してアクセス出来る、その現実をもっと覗き込んで、その現実に対してもっと出かけていって、そこから何かを得ようとしない――現代人の「なまけ」を意識させられるような、「借りぐらしのアリエッティ」はそんな作品です。

確かに、インターネットも未知の世界に出かけていくツールではあるのですが、いま、僕たちにとって、そのツールはあまりにも使いやすすぎるのです。それを扱えたくらいで手に入れた世界で、たぶん僕たちは、満足してはいかんのです。

インターネットからはおそらく遮断されている、郊外の古い屋敷、という設定もそこを強く感じさせますね。ここには、自分の足でしか、出かけられない。

グラフィックが綺麗すぎ。多分、無限×無限ピクセルで、毎秒無限フレームで動いてる。色も多分無限色使える。夕焼けとかマジありえねー美しさ。

人生は神ゲーだ http://anond.hatelabo.jp/20070303100408

僕はこのアニメを見ていて、この一文を思い出しました。

だからこそ、この作品が残念なのは、その精細な世界をダイナミックに描くことに、ところどころ失敗してしまっている点です。

角砂糖、ダンゴムシ、てんとう虫、まち針、ティッシュ、人の手のひら、猫の鼻――

どう考えても縮尺がおかしいだろう!!!!

特に残念な点は、もうほんとうに、この上記の一点につきます。

それから――僕には、アリエッティと主人公少年との交流の話が、何を言いたいのか、いまいちよく分かりませんでした。

もし、こういう意味のある物語なんだよ、という解説をできるひとがいたら、ぜひ教えてください。

2010年7月25日日曜日

協力して買い物、という文化を。グルーポン系サービスの未来。

ひとと一緒に暮すことのメリットはたくさんあると思います。そのひとつに、生活費が安くなる、ということがありますよね。

まず、一人暮らしだと、なんでもひとりのためにモノを買わなくちゃいけない。

けれど、ふたりで暮らすなら、ふたりでひとつ、っていう買い物ができます。冷蔵庫は、ひとつでいい。扇風機も、ひとつでいい。

でも、実は、ふたつ買うときだって、安くなる。ひとりぶんをそれぞれが買うよりも、ふたりぶんを一緒に買ったほうが安くなるんです。お店にしても、そうやって、家族や恋人単位で買い物に来てもらったほうが、嬉しいから、安くします。

ゲイのふたり暮らしを描いた ”きのう何食べた?” は、僕の愛してやまない漫画のひとつです。この漫画の「すいかを半分こ」する話が、僕、すごく好きなんですね。

すいかがすごーく安く売られてるんだけど、ひと玉買うにはちょっと大きすぎる。そんなとき、同じようにして、すいかを見つめるおばさんに出くわす、主人公の筧さん。迷って、他の買い物を済ませて、そしてまたすいか売り場に戻ったら、またその同じおばさんにばったり。そこで思い切って、「一緒にこのすいか買いませんか?」って持ちかけるんです。

↑この1巻に入ってる話。
よしなが ふみ
講談社
発売日:2007-11-22

こういう光景が、もっと日本のあちこちで見られればいいのになあ……と思います。

よく東京の人は冷たい、なんて言うでしょう。地域でのつながりがすくないって。近くにいても、みんなお互いを無視しあってるって。それはでも、別に冷たいからじゃなくて、思いやりもあるんですよね。お互いを尊重してるからこそ、近くにいるっていうだけの関係性くらいじゃ、いきなり関わろうとしない。隣り合っただけの人とお喋りを始めたりなんかしない。それは、そうすることがお互いに心地の良いことだって、思いやってるからだと思うんです。

けれど、そうじゃない、シチュエーションがあります。電車で隣に座った人には話しかけなくても、バーで隣に座った人には話しかけますよね。それは、お互いにコミュニケーションをとることが、心地いい場所だってことが分かってるからです。

この「すいか半分こ」は、奇跡的に、筧さんと出くわしたおばさんとが、ふたりとも「お互いにメリットがある!」って気づけたから起きた話なんです。

けれど、これが、奇跡じゃなくなったら、いいと思いませんか。もっと日常的に、一緒に同じものを買いたい人が、一緒に同じものを買えるようになったら、すごく素敵じゃないでしょうか。

ところで、コカ・コーラが、アルゼンチンの「友だちの日」に合わせてリリースした自動販売機が、とても素敵なんです。

友だちと協力しないと、買えない自販機。

協力して買い物をすることが楽しくてお得、っていうこの自動販売機。その趣旨のとおり、友達と協力しないと買えないという趣旨のようです。苦労した分、通常の金額で友達の分もコーラが提供されるっていうしくみ。

一緒に同じものを消費する、っていう行動を楽しめる、友だちとの買い物を楽しめる、いい広告手法だと思います。友情を大事にするという企業の姿勢も伝わってきて、すごく僕的には好印象です。

さて、いま、インターネットを利用した共同購入のクーポンサービスが流行っています。いわゆるグルーポン系サービスというやつです。僕もちょくちょくチェックしています。twitterではその系統のサービスをまとめていますので、お得な情報をチェックしたいかたは僕の作ったこのリストをフォローするといいです。

この共同購入のクーポンサービスは、お店にとってもお客さんにとっても嬉しいサービスです。クレジットカードでクーポンを事前購入するという仕組みや、一度に大量のお客さんを集客できる、という点がお店側のメリット。一方、お客さんから見たら、本来の価格よりも格段に安く商品を買えます。

ただ、僕としてはこのグルーポン系サービスには、もっと面白いことが出来ると思っているんです。実は、上に書いたようなことを踏まえて、ちょっとした腹案というか、ビジネスアイデアがあったりします……。なかのひとはもし興味があったら僕を雇ってください(笑)

2010年7月23日金曜日

iPadを捨てよ、町に出よう

今日はちょっと、なんだかコムズカシイ感じの話で恐縮です。

デカルトとか出てきます。哲学の話です。僕も本当はあんまり哲学とか詳しい人じゃないんですが、大学の授業でメディア論という授業を受けていまして、そのつながりで少しそんな話を。

近代以降の哲学というのは、メディア論と重なる領域を持っていました。すなわち、問題は「どのように真理をみるのか」です。

当時、真理の獲得手段として用いられていた「信仰」に対して、デカルトは自己の存在を定式化することによって現れてくる「理性」こそ、真理探究の原点だと捉えました。

「我思う、ゆえに我あり」。

聞いたことがありますよね。哲学史上においてもっとも有名な命題です。

疑い得ないものだけを原点にして世界をつくりあげる――。

いまや「世界観」という言葉はありふれたものですが、当時において、世界を観ることは信仰の目を通さなければなりませんでした。個人の世界観など存在し得なかったのです。個人の「世界観」という概念を生み出したのは、デカルトさんの功績なのです。

たとえば、数学というのは確固たるもののひとつとして認識されがちです。

しかし、デカルトは数学さえ疑いました。神が人間を作ったとき(この創造神という前提を残しているところが、デカルトの近代的でない側面でありますが)、誤った数学についての認識をするように、人間をプログラムしているのかもしれない――。デカルトはそのように数学にさえも、懐疑心を持ち込んだのです。

絶対に保証できるのは、自分という存在が存在していることだけ。

ここで問題になるのは、僕たちが何かを認識するとき、数学のような絶対的と思われるような真理でさえも、自己の内側に潜む何かしらのフィルタ、自己の網膜とも言うべき何かしらの媒介を通してしか、把握することができないということです。

で。

現代の主流な哲学思想においては、個別の世界観に対する、こういうデカルト的な考えっていうのは、かえって大きな誤解や錯誤を引き起こす危険が強いと考えられていて、退けられがちです。

なぜか。

これは、一部の個人体験を過剰に信頼してしまうことが、ファシズムや極端な原理主義に繋がり兼ねないという危惧があるからです。つまり、世界を観るための媒体を、自己ひとつに依拠することは、リスクが大きい、ということなんですね。

僕もこの危惧には同意です。

自分の視点だけを信頼するのではなくて、より多様な視点を獲得することこそ、必要なことだと考えています。これ、いわゆる、多元論というやつです。

僕は投資におけるリスクヘッジに例えて考えることができるな、と思っています。

キーワードは「分散」です。

主に中長期的な投資を考えるとき、ひとつのものに集中投資する行動は、もっともやってはいけない投資行動のひとつだと言われています。ひとつの金融商品、株式、債券などに投資することは、投資対象の価値下落の際にリスクを回避できないからです。

よって、分散投資は金融投資の原則だと言われています。しかし、ひとつひとつの金融商品に個人で分散する手間も大きなコストであるため、分散投資のためのバランスを調整したパッケージ型の商品などが存在します。投資信託なんていうのはそれです。

これと同じことが、実は現代における媒体の選択においても可能です。世界を観るための媒体を分散させる、ということは、すなわち複数のメディアを通して事象を観察するということ。

これは僕たちがいまや日常的に行なっていることです。

インターネットを通じて、あらゆるところで濾過された情報を僕たちは消費しています。Google検索による機械的なページランク、Facebookやmixi、Twitterなどのソーシャルメディア。そういった、信頼可能で先進的な、より高度な分散手段を様々に組みあわせて、僕たちはインターネットを使っています。

そうして、「インターネット」というパッケージ型の投資信託を通して、僕たちは複数の媒体提供者を手にすることに成功しているといえるのではないでしょうか。

けれど、僕はここでもう一度立ち止まって考えたいのです。

複数の金融商品に分散投資を行っている投資信託でさえ、先に起きた大規模な金融危機のリスクを完全に回避することはできませんでした。

確かに、誤った投資先へ集中を行った投資家のように、大きな損害を被ったわけではありません。しかし、サブプライムローンの証券が、多くの金融商品と組み合わされて販売されており、多くの投資家は信用収縮による打撃をほとんど回避することができませんでした。

この原因は、多くの投資家が金融商品、その格付や保証といったものに対して、細部を見ようとする疑念を発揮しようとしないで、その業界全体の動きに対する過当な信頼を寄せていたことなんじゃないかと僕は思っています。

デカルト的な自己の「理性」をもう一度喚起し、サブプライム層に対する担保信用保証に対して、真理を見極める理性を、もう一度適用するべきであったのだと、僕は思います。

インターネットのソーシャルフィルタリングやによって得られる情報を、過当に信頼しがちな僕たち現代人。

僕たちにも、この投資信託の例と同じ観点を適用することが出来る、と僕は考えています。

卑近な例なのですけれど、僕自身の個人的な体験がそう。先日、エレクトロ・ワールドの歌詞についての記事でも少し書いたのですが。

ゲイデビューを果たし、複数のあらゆるゲイたちと新宿2丁目で交流することになって、僕がインターネットで得ていた世界観・価値観は変容しました。要は、僕自身にも、ゲイに対していろんな誤解や偏見があったんですよね。

インターネットによって知ることの出来る情報は、結局のところ、濃縮された「うわずみ」に過ぎないのだ、ということを、そのとき僕は学びました。

ゲイのことを知りたいのなら、やはり、自分の足でゲイたちに出会いに行くことが最も必要なのです。

宮崎駿は、スタジオジブリ発行の小冊子「熱風」のなかで、iPadを利用して情報収集をするというインタビュアーを、iPadをiナントカと呼び、痛烈に批判しました。

あなたの人権を無視するようですが、あなたには調べられません。なぜなら、安宅型軍船の雰囲気や、そこで汗まみれに櫓(やぐら)を押し続ける男達への感心も共感もあなたには無縁だからです。世界に対して、自分で出かけていって想像力を注ぎ込むことをしないで、上前だけをはねる道具としてiナントカを握りしめ、さすっているだけだからです。

僕は、自身の体験から、この宮崎駿の言説を強く支持します。

確かに、デカルトの「我」への唯一的な信頼感は危険だと僕も思います。

しかし、多元論的に、過剰に自分の世界観を、インターネットというツールをもって、他者の目線に分散して委託するだけでよいとは思いません。そうした行動は、僕たちを単なる消費者へと貶めかねないと思うのです。もしそうやって、消費者ばかりのインターネットになってしまっては、いったい何が面白いでしょうか。

ひとりひとりが、少しずつインターネットに、自分が獲得した生々しい言葉や色や音を吹き込むのです。

寺山 修司
角川書店
発売日:2004-06

ポーの"大鴉"を題材にとった、Utada「Kremlin Dusk」を聴く。

先日、ゲイバーで友人と宇多田ヒカルの話になりました。僕のゲイの友人には音楽好きな人が多く、その日は特に女性歌手の時代の変遷を追うようなトークでした。そのなかで最も盛り上がったのが宇多田ヒカルの話題で、その場で宇多田のウェブサイトを見て、ああでもないこうでもないという話をしていました。

広く知られていることですが、宇多田ヒカルの音楽は、古今東西の文学を多くモチーフにとっています。その中でも、文学そのものとして発表したかのような楽曲、Utada名義による "Kremlin Dusk" をみなさん聴いたことがあるでしょうか。



この楽曲で引用されている、エドガー・アラン・ポーの「大鴉(The Raven)」は、いわゆる物語詩です。

主人公は恋人レノーアを失って打ちひしがれており、そこに大鴉が訪れます。主人公は名前を聞くと、大鴉は「Nevermore(二度とない)」という返事をします。そのうち、主人公はその大鴉が「Nevermore」以外の言葉をしゃべれないことを革新します。主人公はそれから大鴉との対話を試みたり、打ちひしがれた思いをわめきちらしたりしますが、そのたびに帰ってくる言葉はくりかえし「Nevermore」のみ。最後に主人公は、天国でレノーアと再会できるかを問いかけます。大鴉は「Nevermore」と答え、主人公は発狂します。主人公はそうして、大鴉の影に魂を閉じ込められ、「Nevermore」と叫ぶことしかできませんでした――という物語。

この物語詩の特徴は、その音韻。

僕は詩に詳しい人間ではないので、完全にWikipediaからの受け売りですが、『大鴉』は各々6行の18のスタンザ(詩節、連)からできているのだそうです。

韻律は強弱八歩格。これは、アクセントの強い音節の次にアクセントの弱い音がくるトロキー(強弱格)という韻脚を1単位として、それを8つ重ねたものが1行になるというものです。第1行で説明すると次のようになります(太字は強勢、「/」は韻脚の区切り)。

Once up- / on a / mid-night / drear-y, / while I / pon-dered / weak and / wear-y

大鴉 ー Wikipedia

よくわかりませんよね(笑)

でも、なんとなく、催眠術的な感じを起こさせるものだということは理解できます。大鴉が主人公に繰り返し「Nevermore」と返すのもまた、催眠術的です。

ところで、実際僕も原典に挑戦を試みたのですが、英語が苦手なので、挫折しました。

代わりに、つい数年前に出た加島祥造による翻訳があるので、僕はそちらを読みました。


エドガー・アラン・ポー,加島 祥造
港の人
発売日:2010-02



この加島祥造の訳が特に優れているのは、「Nevermore」を訳さずに、そのまま「Nevermore」としたことのようです。また、実際に読んでみると分かりますが、無理なく、踏める音韻だけは翻訳版でも踏むようにしているのが分かります。

「と」の音が印象的。


さて、この作品で執拗に繰り返される「Nevermore」という言葉。

ポーはこの「Nevermore」の「o;(オー)」という長母音が、長く伸ばすことが出来て悲哀の調もかねることが出来る言葉だとして、選んだのだそうです。

Utadaはこの「o;(オー)」の響きを、この楽曲 "Kremilin Dusk" に執拗に取り入れています。確かに楽曲前半の「o;(オー)」は特に、悲哀を感じるような、そんな音がこめられているように聞こえます。

Utadaのこの試みは、実は詩ではなく歌という表現手段だからこそ出来た表現です。本来なら長母音ではない音も、歌の中で長母音へと変化させて強調しています。

まず、「Kremlin Dusk」の歌詞前半の悲哀を込めて歌われる部分を見てみましょう。

All along I was searching for my Lenore
In the words of Mr. Edgar Allan Poe
Now I'm sober and "Nevermore"
Will the Raven come to bother me at home

Calling you, calling you home
You... calling you, calling you home

By the door you said you had to go
Couldn't help me anymore
This I saw coming, long before
So I kept on staring out the window

Calling you, calling you home
You... calling you, calling you home

赤く記したのは長母音の「o;(オー)」が使われている箇所。特に末尾の「o;(オー)」は実にたっぷりと伸ばして発声していますよね。これを見ながら聞いてみると、Utadaのこの長母音に対する表現の試みが分かると思います。

これだけではなく、Kremilin Duskは、全編にわたってこの音律へのこだわりが見える作品なのですが、もうひとつ特筆しておきたいのは、歌詞後半の執拗に繰り返される、疑問文の繰り返しです。

一部だけ、和訳を添えて抜粋します。

Is it like this
Is it always the same
If you change your phone number, will you tell me

それが好き?
いつもの調子?
電話番号を変えるなら、教えてくれるよね?

ちなみに、この部分は「i(イ)」の音が特徴的ですね。

何故後半はひたすら疑問文を繰り返す構造になっているのか。僕が考えるに、ここには問いかけに対するとある答えがすべて省略されているのです。

もちろんその答えとは、「Nevermore(二度とない)」。

楽曲前半の悲しい穏やかさに比べ、疑問文が執拗に繰り返されるにつけて、楽曲の調は狂乱と絶望に駆られたかのような激しさをまとってゆきます。それはまさに大鴉の主人公と同じような感情の流れです。

Utadaがこの楽曲を収録した「Exodus」には、この曲以外にも、様々な実験的作品が複数収録されていますが、僕は特にこの「Kremlin Dusk」が面白い楽曲だと感じました。たまにこの曲、ヒトカラで歌ったりしていますw

Utada
ユニバーサルミュージック
発売日:2004-09-08

他の楽曲も魅力的です。おすすめです。

2010年7月21日水曜日

過渡期の不幸と大富豪の革命

修学旅行や部活の合宿、みんなでお泊りした時の、夜の楽しみといえば、なんでしょうか。そう、想いを寄せる彼の寝顔……も、そりゃあ楽しみなんですが、定番といえば、カードゲームですね。そう、UNOやトランプです。

世代ごとにトランプゲームのブームは違うかもしれませんが、僕が最も遊んだトランプゲームは「大富豪」です。地域によっては「大貧民」とも。

その名の通りプレイヤーが「大富豪」「富豪」「平民」「貧民」「大貧民」などと格付けされるゲームですね。ローカル・ルールも様々ありまして、「イレブンバック」や「8切り」、「階段革命」なんてのもあります。

このゲームの特徴は、なんといっても「革命」。

それまで強かったはずのカードが一転してババになり、それまで弱かったはずのカードが一転して最強の手札になる、まさに「一発逆転」です。

強い手札が手元に集まってホクホクしていた人にとっては、「ちょっと、こんなの聞いてないよ!」といいたくなるようなこの「革命」ですが、現代社会においても「革命」で似たようなことが起きることがあります。

安定した職業だと思われているポジションを確保してぬくぬくしていたら、いつの間にか、かえって損な役回りを押し付けるポジションに変わってしまったり。

価値があるものを溜め込んでいると思っていたら、いつの間にか、課税対象になったり価格が大暴落したりしてしまったり。

一流企業は潰れない? 土地の価格は下がらない? 昔はそう思われていましたよね。新聞社や出版社が倒産するなんて。自由民主党が政権をとられるなんて。そんなことも思われていました。公務員は安定した職業だったはず。地方自治体が破産することがあるの? JALはかつて就職人気のナンバーワンだったよね?

過渡期の変革はこういう不幸をうみます。約束されたはずのものが得られない、という不幸。大富豪のゲームほど大逆転は頻繁に起きない気がするけれど、

でも、なんとなく、過渡期の不幸は大富豪の「革命」に似ている気がする、とふと思ったのでした。

必勝法は見つかるものなのでしょうか。

2010年7月20日火曜日

死者と生者の対立を描けなかった、あるいは描かなかった「東のエデン」。

某ゲイバーを拠点に、その店で知り合った友人たちおよびママと「エヴァ部」なる部活に参加しています。名前の通り、エヴァを見たり語ったりする部活です。というのは半分本当、半分嘘で、その活動はエヴァだけにとどまりません。さて、もう数カ月前の話になるのですが、このメンツと一緒に「東のエデン」の劇場版を鑑賞してきました。

僕はこの「東のエデン」のアニメ版がとても好きで、この劇場版もたいへん楽しみにしておりました。アニメ版でひろげた大ぶろしきを、劇場版で回収できるのか――。しかし、結果は残念。そこかしこに散らばった矛盾点になんの落とし前をつけることもなく、説明不可能なハイパーハッキング行為によって物語は強制終了させられました。

とはいえ、このアニメが非常に面白いアニメだったことには変わりありません。論点がきちんと整理されておらず、明確な対立が正しく提示されなかった(その最たるものは「ニート」の描きかた)のは残念でした。しかし、少なくとも、物語の核に選んだポイントは十分に魅力的でした。

ノブレス・オブリージュ。財産や権力の保持には社会的責任がともなう、という考え方。

では、「財産や権力を保持する人」って誰なんでしょう。

以前取り上げたように、65歳以上の平均貯蓄残高は2423万円。不動産が4251万円。ただしこれは世帯あたりなので、単純に2で割って3337万円。これに100万をかけるとざっと33兆。赤字国債を帳消しにできるほどの額だ。

Spend Now, Pay Later -- Posthumously - 404 Blog Not Found

さて、リンク先のdankogaiのブログにも詳細があるのですが、ここでいう「持てる者」とは高齢者のことだけではありません。確かに高齢者は、財産や権力を保持する層です。

しかし、いえ、むしろ、それ以上にこの国において強大な権力を持つ存在がいます。

それは「死者」です。

東のエデンに登場した「相続税100%法案」。これがすごい。いったいこの法案がいかにして提出され、いかにして国会で論じられる争点となったのか。非常に興味あるところなのですが、アニメではほとんど描かれません。この法案は、死者からの財産剥奪によって、国家を生者のものへと引き戻す衝撃的な法案です。

是非はともかくとして、東のエデンはこの対立を、わざとなのか、誤魔化しました。

裕福な親に守られ、働かなくても生きていける「ニート」の多くは、祖父母あるいは曾祖父母世代の死者からの潤沢な相続を受けることが出来る層です。死者の権力をあてにした、そういう存在、いわば<持てる者>です。

しかし、東のエデンはこの「ニート」たちを、「持たざる若者たち」とほとんど同列に語りました。それどころか、既得権益と戦う代表選手のように扱っていました。

とんでもない。

エヴァ部では劇場版の前編を鑑賞の後に、作中でも登場した豊洲の「東のエデン事務所」を貸切にて、会食&作品の議論を行ないました。当然、その場で「ニートは『持てる者』だろ」というツッコミが入り、僕たちは不満をじゅうぶんに語りました。

しかし、結局、劇場版の後編をしても、作り手たちからその点について結局十分に語られることはありませんでした。

格差問題が語られるとき、多くの議論で抜け落ちている視線があります。おそらく先述のdankogaiブログなどの読者にとっては自明です。それは、強者・弱者にはふたつのベクトルがあること。

ひとつはフロー、ひとつはストック。より分かりやすく言えば「産み、稼ぐ強者/産まず、稼がない弱者」と「持つ強者/持たざる弱者」。

この国の「持つ強者(死者)」は何故こうまで稼ごうとしないのか。

あまり他人の生き方や死に方に不平不満を言いたくはありません。しかし、やはりこれだけの数字を見てしまうと、愚痴くらいはこぼしたくなってしまいます。

貯蓄残高2000万以上……。

多額の奨学金で借金漬けのスタートを切らざるを得ないイチ学生としては、喉から手が出るほど欲しく「その金で俺に商売させろ!」「若年者が負担しなきゃいけない国債をそれで帳消しにしてくれ!」と言いたくなるほどの額であります……。

まあ、相続税100%は、さすがに暴挙だと思ってはいるんですけれどね。

参院選を通して、考えた税金の話。

第22回参議院議員通常選挙が終了しました。って、今さらながらですが。

僕が支持していた候補、松田公太さんは当選。さらに支持政党のみんなの党も躍進しました。もうすこし早くこれについての記事を書きたかったのですが、出遅れてしまいました。レポートや試験の季節なので(言い訳)。

選挙にあたってはいくつもの争点がありましたね。その中でも特にメディアで大きく報じられていたであろうと思われるのは、発足したばかりの民主党政権に対する中間評価、といった側面でしょうか。

その側面を中心として、普天間基地の代替移設問題、外国人参政権の付与可否、消費税増税、行政刷新会議、夫婦別姓、子ども手当、公務員削減、赤字国債、天下りなどといった複数の論点――とまあこんな感じかな、と素人ながらに選挙の動向を見守っておりました。

今回の参議院議員選挙を通して、僕が最も重要だと感じたのは「税金」の問題でした。

根本から考えてみると、政治――国家の仕事って、実にシンプルな仕事ですよね。

それは、国民から信頼を得て税金を預かり、それを国家運営――国民に提供するサービスのために使う、ということです。

それは一種の会社経営にも似た営みではないかと僕は考えています。しかし、国家と会社が根本的に違う点があります。それは、原則的に僕たちは国家のサービスを強制的に購入しなければならない、ということ。すなわち納税義務がある、ということです。国家からは強制的に(税の)支払いを求められますし、国民が要求するしないにかかわらず、サービスが提供されます。

さて、なぜそのような「国家」が必要なのか。市場経済では提供不可能だけれど、必要とされているサービスが存在するから、というのがその理由のひとつだと僕は解釈しています。

たとえば、警察。

警察は国の税金で運営されています。警察は僕たちの日々の暮らしを守ってくれています。罪を犯せば罰せられるという原則を世の中に保ち、犯罪などから僕たちの身の安全を守るために、警察官のみなさんが働いています。

おおむね国民はこの警察というサービスの提供を望んでいると思います。また、例に上げた「警察」以外にも、「国防」や「裁判」や「医療・福祉」などといった「公的なサービス」があります。

けれど、このサービスを市場で商品として提供するというわけにはいきませんよね。警察に対して「私は自分の安全は自分で守るからこのサービスに対価(税金)は支払わないわ」なんていうAさんがいたら、そもそもサービスがなりたちませんからね。

そういうわけで、日本国憲法の30条には、国民の三大義務とされるもののうちのひとつが定められています。すなわち、「納税の義務」。

けれど、世の中には金持ちもいれば貧乏な人もいます。大金を稼げる能力を持った人もいれば、病気で働けず稼げない人もいます。貧乏な人や病気で稼げない人に対して、丈に合わない税金を納めろ! なんていうのは、非情ですよね。当然、少し余裕のある人は彼らの納税分を代わりに助けましょう、という話になります。

また、「公的なサービス」の恩恵を強く受ける人とそうでない人がいます。若者に比べて、高齢者のほうが、医療や福祉の公的なサービスの恩恵をたくさん受けると思います。また、東京都民と沖縄県民では、生活保護を受ける人の人数も割合も違います。

こういったところから生じる、税負担の不公平感を解消するために、課税には様々な仕組みが設けられています。たとえば、タバコや酒などのぜいたく品にはより多く課税したり、所得の高い人間にはより多く課税したり、使途が定められた目的税とそうでない普通税を分けたり……といった仕組みです。

こういった税の仕組みについて、僕はこの参議院選挙を通して考えるようになりました。そして、僕はこの「税負担の不公平感」こそが政治への不満の、もっとも根本的な点なのではないかと思うようになりました。

たとえば、今回の選挙について考えると、たとえば以下のような感じです。

  • 子ども手当の財源はどこの誰が支払う税金から出てくるのか。
  • 赤字国債の補填はどこの誰から支払う税金から出すのか。
  • 現在いろいろと行われている公共事業は我々が負担する税金で行う価値があるのか。
  • 公務員や官僚は安定した給金を貰っているようだが我々の税金をそこまで彼らに支払う必要があるのか。

たとえば、医療や福祉についての税負担は、確かに一部の人達のためにみんなの税金が使われています。けれど、その一部の人達を支えることが、みんなの安心にもつながります。ですので、多くの人々がこの充実を願ったりするわけです。

一方で、一時期話題になったような「はやぶさ」への公的支出はどうでしょうか。はやぶさを支えることで、日本国民がどれほどの恩恵を受けるでのしょうか。科学・宇宙技術の進展は確かに日本国民に恩恵をもたらすこともあるでしょう。しかし、現在の公的支出は、その恩恵にみあったものでしょうか。事業仕分けでは関連予算が「削減」とされていましたね。

こういった公的支出と税負担とのバランスをいかにコントロールするか、これが政治家のお仕事の実に大きいポイントだと僕は考えます。

今回、東京選挙区では蓮舫さんがトップ当選を果たしました。東京選挙区はいわゆる「地盤」や「組織票」の影響力が他の地域に比べて小さい「浮動票」の占める割合が大きな地域です。すなわち、純粋に政治家の仕事や姿勢に対して、投票行動が反映される傾向があります。

蓮舫さんがダントツのトップ当選を果たしたのは、この「公的支出と税負担のバランス」という問題に、行政刷新会議(事業仕分け)を通して切り込んだという点が大きいと思います。僕も蓮舫さんは支持していました。

今回の選挙は、僕にとっては政治というもの、そして税金というものを、より身近に捉えるきっかけになりました。

消費税増税の前にやるべきことがある。

みんなの党の主張はその点で明確で、支持できる政党だと感じました。また、公的支出を効率よく医療・福祉に充当し、ミニマムインカムなどの生活を重視した政策を掲げています。民業圧迫を押しとどめ、経済成長に重点を置く点についても、将来世代(若年層)への配慮が強いと感じました。ミニマムインカム導入や道州制の導入などについても、賛成です。

今回の選挙を通じて考えた税金のこと。

僕たちは、もっと税金がどこの誰によって負担され、何に使われているのかを明確にしる必要があるのかもしれません。あるいは、政治家によってそれはもっと明確にされるべきなのかもしれません。

手始めに消費税についてもっと知ろう、と考えて、昨日こんな本を買いました。いま読んでいる途中です。

斎藤 貴男
講談社
発売日:2010-07-16

消費税って、いったい誰が誰のために払っているんでしょうか。

消費税は、本当に「消費者が」払う税なのでしょうか。

また、消費税は「消費」にかかる税金ですが、消費を抑制することにつながるのではないでしょうか。

また、地方の消費と都市の消費、若年層の消費と高齢者の消費には、大きな差があるのではないでしょうか。

税金の多くは成人してから納めるものですが、消費税は子どものころから支払ってきました。

そんな身近な消費税のことから、税金について僕はもう少し考えていきたいと思います。

追記:
この記事、書き終えてから将来世代(若年層)が大きく負担せざるを得ない「国債」についてもっと触れるべきだったと後悔しました。

2010年7月15日木曜日

中田ヤスタカの歌詞の世界 ~ポリリズムとエレクトロ・ワールドから

中田ヤスタカは自分の書いた歌詞についての説明をほとんどしません。これは歌い手に対してさえもそうで、Perfumeの三人に対しても、歌詞の説明はされないと聞きます。

capsuleの楽曲については、そもそも歌詞すら明らかにしません。歌詞を聞き取りにくいものも多々あり、歌詞そのものに複数の説がある場合も珍しくありません。その最も特徴的なのが「JUMPER」です。検索してもらえば分かりますが、正しい歌詞をみつけることはほとんど不可能です。なお、capsuleの楽曲はカラオケにもほとんど入っていません(capsuleは一部を除いてJASRACに楽曲管理を委託していない)。

こういった中田ヤスタカの姿勢は、ほぼ間違いなく意図的なものだと僕は考えます。よく彼について言われるのは、彼がとてもビジネス的な発想の持ち主だということ。

それは彼が語る音楽制作スタイルからも明らかです。彼は常に自分の音楽制作にとって最適な手法を模索しています。

例えば、有名な話ですが、彼は自宅に自前のスタジオをつくっています。電話ボックスサイズの、非常に小さなスタジオです。

何故このようなスタジオをつくったのか。スタジオをレンタルすることは、スタジオを利用する時間に制限がかかってしまうからです。そして、彼の音楽にとって、一般的な「大きなスタジオ」は必要がない。レンタルスタジオは彼の音楽にとって、コストであると彼は判断しました。機材についてのこだわりも非常に強い中田ヤスタカにとって、スタジオはレンタルより自前であったわけです。

しかし、スタジオはレンタルするものだという認識が根強い音楽業界。そこにあって、この判断を下せる中田ヤスタカには、サウンドプロデューサーという肩書きだけではない、別の才覚を見出さずにはいられません。

また、これだけ成功したサウンドプロデューサーでありながら、決してそれを専業にはしないところも、サウンドプロデューサーとしては特徴的です。DJかつイベントオーガナイザーという自分の足場を着実に固めており、それどころか、Perfumeなどのプロデュースを、DJなどの活動のプロモーションとすら捉えているフシさえあります。

歌詞の話に戻ります。

以前の記事にも載せましたが「ポリリズム」の歌詞の話をします。

ほんの少しの 僕の気持ちが
キミに伝わる そう信じてる
とても大事な キミの思いは
無駄にならない 世界は廻る
ほんの少しの 僕の気持ちも
巡り巡るよ

この歌詞において中田ヤスタカが表現したことを僕なりの言葉で説明します。

「表現や気持ちというものは、伝えることができる。僕の発した表現についてのキミの思いも無駄にならないし、キミから返ってきた言葉を、伝え手は受けとめることができる。僕が発した少しの気持ちの表現が、キミたちを経由して、世界をめぐることを信じている。」

これは、インターネットの発達によって、アーティストとファンの距離が縮まったこと、そしてインターネットによるファンの言葉の影響力が大きくなったことを示唆していると僕は考えます。現にPerfumeやcapsuleの成功を支えたのは、マスメディアのプロモーションよりもネットのコミュニケーションからの影響が大きいわけです。

ここに、歌詞について説明を避ける中田ヤスタカの意図を見ることが出来ます。

中田ヤスタカの歌詞は解釈が受け手に委ねられています。何故、中田ヤスタカは解釈を委ねるのか。それは、解釈について、コミュニケーションの発生を期待しているからだ、とは考えられないでしょうか。

おそらく彼は、「コミュニケーション」こそ音楽が扱うことのできる最も大きな商材のひとつであると捉えているのだと思います。彼は自身が主催するパーティやライブなどについて「音楽以外のものを楽しんで欲しい」と言います。これこそまさに、彼が音楽そのものだけではなく、音楽を通じたコミュニケーションをも、自分の売り物だと捉えていることの証左ではないでしょうか。

せっかくですので、もうひとつ、「エレクトロ・ワールド」という曲の意味解釈について、話をします。

この歌詞は広義のパラダイム・シフトについて書かれた曲です。認識や思想、価値観などが劇的に転換するさまを描いています。

この道を走り進み進み進み続けた
地図に書いていてあるはずの町が見当たらない
振り返るとそこに見えていた景色が消えた
この世界僕が最後で最後最後だ
エレクトロワールド
地面が震えて砕けた 空の太陽が落ちる 僕の手にひらりと

いままで自分の進み続けた道の先に待っているものが、以前の認識で捉えていたものとは違っていた。地面が砕け、太陽が落ちる。

これはまさに、価値観の転換、革命的な考え方の変化そのものについて描いた歌詞です。それを「エレクトロ・ワールド」というフレーズを通じて書いているのは、多くの人が、インターネットと密接に関わった「価値観の転換」を体験していることを踏まえたものだと僕は考えます。
本当のことに気づいてしまったの
この歌詞で書かれている「本当のこと」は、最重要キーワードです。その「本当のこと」をインターネットで得たのか、それともインターネットから離れたリアルの世界で得ることができたのか。ここを前者と捉えるか、後者と捉えるかで話がだいぶ変わってきます。僕の解釈では後者です。

僕の個人的な体験に結びつけて話をします。

インターネットによってゲイについての情報を得ることは今や難しくありません。検索ボックスにそれらしきキーワードを放りこめば、ケータイでもパソコンでも、ゲイについて知ることができます。

しかし、新宿2丁目をはじめとして、ゲイが集う場所やイベントに出かけていき、そこで人間関係をつくっていったことで、僕の価値観は広義の意味でパラダイム・シフトをおこしました。

インターネットによって知ることの出来る情報は、結局のところ、濃縮された「うわずみ」に過ぎないのだ、ということを僕は学びました。

ゲイのことを知りたいのなら、やはり、自分の足でゲイたちに出会いに行くことが最も必要なのです。

そこで息をして、暮らしをして、ご飯を食べて、仕事をして、恋をして、 そうやって生きているゲイの、 歩くときの呼吸や、笑った表情や、まるまった肩や、皺ついた手のひらや、 話すときの声色や、笑いすぎたときの涙のこぼれるさまを、 同じ場所に出かけていって、直に感じ取ってくることが「ゲイについて知る」ということなのです。

これが僕の「本当のことに気づいてしまったの」です。インターネットによって生成された価値観が転換させられたことを重ねながら聴くことが出来る曲なのです。「エレクトロ・ワールド」とはすなわち、このウェブ社会の中で人々が自分のなかにつくりあげている「世界」そのものです。

いかがでしょうか。

エレクトロ・ワールドだけではなく、中田ヤスタカの歌詞には、それぞれによって、いろいろと解釈が可能なものがたくさんあります。

Wikipediaを調べてみると、この「エレクトロ・ワールド」は「コンピュータで生成された仮想世界が崩壊していくさまを描いている」なんていう「説明」が載っていて、「要出典」を付けられています。

その他の曲の歌詞についても、非常にオモシロイものがありますが、それはまたいつか別の記事で。

2010年7月9日金曜日

あした、僕が、嫌いなはずの抹茶ラテを朝イチで飲みにいく理由。

食べ物も、飲み物も、僕の好き嫌いは多くありません。そんな僕の数少ない苦手なものがあります。抹茶をつかったラテやスイーツです。抹茶そのものは好きなのです。ただ、抹茶にクリームを加えたり、ミルクを加えたりした加工品が苦手なのです。抹茶アイスも苦手です。

僕はよくゲイ友達とファミレスでお茶をします。ファミレスのスイーツって、定番商品とフェア商品を組んでいることが多いですよね。そんなときに、抹茶のスイーツのフェアが組まれていると、がっかりしてしまいます。いまも実はデニーズにいるのですが、ちょうど和スイーツ特集です。

僕は食べたり飲んだりすることが大好きです。ただ、残念ながら、舌に自信はありません。いわゆる味音痴。それに気づいたのは、ある日の夕飯のテーブルでした。母の料理のちょっとした隠し味に、父と弟が気づきました。僕だけが気づけませんでした。そのとき、父か弟か覚えていないのですが、「まさひろは味音痴だ」と言ったのです。ああ、僕は味音痴なのだ。そのときに僕は自覚しました。

味音痴は、僕のコンプレックスのひとつです。けれど、たいていのものは美味しく食べることが出来ます。実はゲテモノといわれているようなものでも、わりと平気で食べます。東京には変わったお店があったりするもので、サソリやすずめも食べました。ハチとか、イナゴとか、カエルとかも。ぜんぶ美味しく食べました。僕はもともとあんまり好き嫌いが少ないのです。そして、それはとても幸せなことだと前向きに考えています。

どうしてそんな好き嫌いやら抹茶やらについての話をいきなりはじめたのか。それは明日、とあるお店に抹茶ラテを飲みに行ってみよう、と考えたからです。東京には2店舗を出店しているその店の名前は「KOOTS GREEN TEA」といいます。東京2店舗の場所は、麻布十番と東京ミッドタウン。明日は麻布十番のお店をたずねてみようと思います。日付が変わっているので、厳密には明日ではなく、今日なのですが。

明日は仕事もあるので、行くとしたら朝イチしかありません。しかも、実は今日、うっかり、とある本を電車の中で読みふけった挙句に、終電を逃してしまいました。ファミレスで一晩過ごします。そんな疲れ明けの身体で、なんでわざわざ嫌いな抹茶ラテを飲みにいこうというのか。それは、読みふけってしまったその一冊の本が、原因です。

「すべては一杯のコーヒーから」――。

松田 公太
新潮社
発売日:2005-03

先日僕は、ブログで東京選挙区では松田公太さんに一票を、と書きました。

しかし、正直、先日あの記事を書いたときに、僕は松田公太さん当人について詳しくは知りませんでした。少なくともWikipediaに乗っているような公式のプロフィールや、アジェンダのほかには。もちろんそれだけでも別に構わなかったのですが、せっかくなら本を読んでみよう、と考えました。

この本は、いわば松田公太さんの自伝です。タリーズ・ジャパンを創業し、軌道に乗せていくまでを、彼の少年期から書き起こしたものです。少年期のいじめや、家族との死別。失敗と挑戦を繰り返してきた、その半生が描かれています。

シンプルに読後の感想を言い切ってしまうと、松田公太さんはものすごく熱い人です。情熱があって、決断力があって、強くて格好いい人です。明るくて、さわやかで、男らしい。僕はジェンダーやセクシャリティについての観点から、男らしいという表現があまり好きじゃないのですが、それでも彼にはこの言葉がやっぱり似合ってしまうので使ってしまいました。本人は自伝の中で自分のことを、突撃野郎と言っていますが、まさに言い当てていると思いました。米タリーズの創業社長であるミスター・トムに松田社長がアポイントをとったときの突撃っぷり、そしてその格好良さと言ったらありません。

僕はこの本をものすごく面白く読みました。ただ、正直なところ、この本は誰にでもオススメしたい本というわけではありません。

僕は、あまりに強くあろうとする彼の姿に、あまり共感できませんでした。育ちも違い、性格も違い、強い彼には自分を重ねることはできませんでした。まあ、そもそも共感できるように書かれた本というわけではないのだと思いますが……。

僕はとても弱虫だし、いくじなしだし、そして彼のように自分に厳しく生きることができていません。

つい無駄遣いしてしまうし、つい夜更かししてしまうし、つい……。「つい」が多くて、自分の弱さにほんとにがっかりすることばかりです。

なんというか、今の僕は十分に幸せなのです。友だちとおしゃべりしたり、友だちと一緒にごはんを食べることが本当に幸せです。楽しいのです。だからなのか、強く何かを変えなければいけない、というような強い気持ちをいまひとつ持てていないのだと思います。こう変わったらいいな、こう変えていけたらいいな、そういう思いは確かにあります。けれど、まだここまで、強くなれていません。つい、楽をしてしまう自分がいるのです。別にこのままでもいいかな、と思ってしまう自分がいます。

だから、彼の夢をふくらませる力、彼の目標を達成し成し遂げる力。僕は本書を読みながら、人間にはこんな力強さがあるのだと、ただただ素直に感服するばかりでした。

彼は文庫版の巻末で、人間の弱さについて触れています。そこで彼は書いています。自分はまだまだ弱い人間だと。

以下、引用します。

以前から感じていたことだが、特にここ数年で痛感するようになったのは、人間の弱さである。ダイエットひとつとっても一人でやり遂げることは難しい。また、自分のミスや自分の弱さ、不出来を認められずに、言い訳をしたり、他人のせいにしたりする人がいかに多いことか。この点は私も常に自戒している。(中略)私自身、自分の弱さは十分に自覚しているつもりだ。だからこそ、安易な快楽や贅沢に流されてしまうことが、怖いのである。

これを読んで、僕はとてもフクザツな気持ちになりました。

だって、松田さんは十分に強い。尊敬するほど、強い。なのにそんな強い人が、自分の弱さについて語っているのです……。

いつだったか、一時期、ネット上で「マッチョ」と「ウィンプ」という言葉が流行ったことがありました。簡単な定義をつけると、マッチョは、自分に厳しくあろうとする人。自己責任を前提にして、ものごとを語る人。ウィンプは、他人に厳しくあろうとしたり、自分に甘い小市民のこと。この定義で言えば、松田さんはマッチョです。とてつもなく。

僕はかつて、こういうマッチョに反感を抱いたりしていました。そんなふうに強くなれない人だっているんだ、と。

ていうか、そもそも社会が不平等じゃないか、と。社会が僕たちを苦しめていて、そんななかで僕たちが強くないことを責められると、つらい。僕は確かにすぐ無駄遣いをしてしまうし、僕は確かにだらけてしまうし……。それで生活が苦しかったり、人に迷惑をかけてしまったり嫌われてしまったり、失敗したりして。自分のせいだって自分を責めてしまうのは、つらくてかなしくて、泣きだしてしまうくらいしんどくて。そして、世間や社会のせいにしたりして。確かに「言い訳」なんだけど、それを「言い訳」っていわれることがすごくイヤでした。そのくせ、人のあら探しばかりしていました。

だから、以前の僕は、マッチョな人がほんとうはちょっと、苦手でした。清く正しく凛々しくカッコよく頑張っている人が、実はほんとうはちょっと苦手なのでした。それはたぶん、そんな人に自分の弱さが責められているような気がしていたからです。お前のような弱い人間はキエテシマエ! そんなふうに思われているんじゃないかと、ビクビクしていたから。

そんな以前の僕が、この本を読んだら、つらくてつらくてしかたなかったと思います。こんな風には強くなれない……きっと、凹んでしまったと思います。

すごく面白く読んだし、この本で僕は松田さんのことがすごく好きになりました。ただ、それでも僕が、この本を「誰にでも」とオススメできないのは、そんなふうに弱い自分を責めるつらさを知っているからです。以前の僕のようなメンタリティの人には、この本はきっととんでもなく強い毒だと思います。以前の僕なら、たぶん、こんなふうに一気にこの本を読み終えたりしなかったと思います。

今の僕はどうなのか。

実は、確かにこれを読んで、やっぱりダメな自分のことを責めて、ちょっとつらくなりました。誰かに、自分の弱さを責められているような気がして、ビクビクしたりしました。彼ほどの偉業は成し遂げられなさそうな自分に、凹みました。

ただ……、この本を読んで、少しわくわくしている自分がいました。

このわくわくについては、まだちゃんと説明できません。ただ、心臓がバクバクするような、そんな読後感がありました。いま、その心臓のバクバクが、実は自分の何かを変えてくれるんじゃないか、と感じています。

嫌いなもの、嫌なものについて、もうちょっと向きあってみよう、と考えました。

イヤなもんはイヤ!!!!! って、僕は本当は思っています。たとえば、掃除とか片付けとか大嫌い。運動も息切れするし疲れるしうまくできないし、だいっっ嫌いです。お金の管理も苦手だから心底嫌いです。

でも、もしかしたら好きになれるものも、なかにはあるかもしれない……いまそんなふうに思っています。

実はそれが冒頭の抹茶ラテの話につながるというわけです。

うまく言えないのですが、今の自分に必要なものが、もしかしたらそこに、抹茶ラテの中に見つかるかもしれない。この本を読んで、そんなふうに感じたのでした。

「KOOTS GREEN TEA」は松田さんが、新たに始めたばかりの挑戦です(←間違いでした。追記参照)。緑茶を中心に提供するチェーンで、松田さんはこれを海外に発信しようとしています。僕はこれはきっと成功するビジネスだと思っています。ペットボトル入りの緑茶市場は近年急速に拡大しています。緑茶というのは実は、コストがなかなか安いうえに、そこにお金を払ってでもこだわって美味しい物を、と考える人が多い、そういう市場なのです。海外にも十分に浸透させることが出来る、そういう日本の強い文化だと思うのです。コカ・コーラにもきっと負けない、日本のドリンクです。

KOOTS GREEN TEA

まあ、もしかしたら……やっぱり美味しくない!!! って思うかもしれないけれど。

僕は、あした、抹茶ラテを飲みに行きます。

追記;よく調べてみたら、KOOTSをはじめたのは随分前のことで、そして松田さんはもう社長を退任して、KOOTSのビジネスを任せ、現場から遠ざかってしまったみたいでした。KOOTSはどうなるんだろう。

2010年7月7日水曜日

東京選挙区の最後の議席を、松田公太に。

みなさん、参院選は誰に入れるか決めました?

参院選が迫っていますが、twiterのタイムラインを見ていても、いまいち盛り上がっていません。僕の周囲でも特に話題に上がっている様子はありませんね。

さて、僕はもう誰に入れるか決めています。みんなの党の松田公太さんです。東京選挙区で、まだ誰に入れるか決めていない方、松田公太さんにぜひ一票を。

彼には政治家としての才覚があると思います。

どうして松田さんに政治家としての才覚があると思うのか。それは、彼が成功した起業家だからです。松田さんはタリーズコーヒージャパンの創業者です。また、世界経済フォーラム(ダボス会議)のYoung Global Leadersのひとりにも選出されています。政治家にはビジネスパーソンとしての資質がなくてはならない、というのが僕の考えです。

なぜ、政治家にビジネスパーソンとしての資質が必要なのか。それは、国家も結局は会社みたいなものだからです。違うのは、会社と違って、リストラができないことです。

政治家と官僚は、すべての構成員(国民)を抱えて、国家を運営していかなければなりません。国民を富ませ、それによって税収をあげねばいけません。それが国家をまわしていくということです。バランスシートを読み取ること。損益計算を把握すること。ストックとフローでものごとを考えられること。それができる人物こそ、政治家にふさわしい人物ではないでしょうか。数字に強くなければなりません。

僕がみんなの党を支援している理由も、そういった側面があります。最近のみんなの党は、民間のベンチャー経営プロ集団のようになっています。

僕はみんなの党と社民党を両方応援しています。

マイノリティや医療・福祉に熱心な社民党の意見は重要です。国政に社民党の声は必要だと思います。同性愛者にもフレンドリーです。HIV啓発、障害者支援といった、医療・福祉への取り組みを重視し、生の現場の声に強く耳を傾けてきました。社民党の存在は僕は重要だと思います。

しかし、福祉をバラマキや再配分で行うのは良い政治ではないと僕は考えます。効率的で、効果的で、戦略的な福祉を。財政や国の構造破綻を解決せずに、福祉のためのお金は生まれません。

僕たち若い世代が、福祉の重負担につぶされる社会をこのまま見過ごすのはやめましょう。

必要なのは「公約」などという「動かない約束」ではなく、国家をどのように立て直すかという「戦略」と「経営者的な視線」です。みんなの党は公約ではなく、政策課題を掲げています。

東京選挙区はまず確実にダントツで蓮舫さんが首位ですね。僕は蓮舫さんも実は結構好きですし、蓮舫さんに入れる人の気持ちもわかります。しかし、どうせ入れる一票なら、ちゃんと政治を動かしたくありませんか? 蓮舫さんは放っておいても議席を獲得します。

東京の選挙区の議席はぜんぶで5つ。松田さんはその最後の5つめの席を争っています。彼がこの議席を取れるか取れないかで、この国は本当に大きく変わると僕は思います。

直前ではありますが、僕は松田公太さんの選挙スタッフにも登録しました。

ちょうど試験・レポートシーズンなので忙しいのですが、合間を見ながら選挙のお手伝いをしてこようと思います。

東京選挙区は松田公太に一票を。



松田公太オフィシャルサイト

2010年7月1日木曜日

実用的なことが同時に美しい

先日、ゲイバーでとある年配のゲイの友人に「まさひろくんはゲイゲイしい服装とか、あんまりしないよね」と言われました。実際の僕がゲイゲイしいのかどうかはおいとくとして、そのかたにはそのようにみえたようです。ゲイのステレオタイプな服装や格好だとかいうのは確かにあります。そしてそれを「イカホモ」なんてよんだりもするわけです。

まあ僕は、おしゃれでは全くないと思いますが、僕なりに、自分にフィットするような服を着るようにしています。どうしてもずぼらな性分があるので、自分でもひどい格好をしてしまっていると思えるような時も結構ありますけどね……。やたらぴちぴちだったりとか。

ところで、実を言うと、最近はもう服のほとんどがユニクロです。このブログを書いている今なんて、カバン以外のすべてがユニクロです。靴も、靴下も、ジーンズも、シャツも、下着までも。

先日、ゲイバーに同年代のゲイの友だち4人で飲みに行ったときのこと。その友だち3人ともが、今着てるシャツユニクロだし、ジーンズもユニクロだよ、と言っていて驚きました。あまり気づかなかったけれど、ユニクロを愛するゲイは僕だけではなかったのです。着やすいし、着心地いいし、シンプルでデザインもいいし。

それに蒸し暑いこの季節。ユニクロの商品につけられている「DRY」や「COOL」という文字は本当に魅力的です。

ユニクロが僕は好きです。かつてユニクロは、安かろう悪かろうと言われて、よくない、ダサいファッションの代名詞でした。しかし、いまやその風潮は変わりつつあると思います。安くて、実用的で、そしてちゃんとデザインされています。そのシンプルなカジュアルウェアは、カラーも豊富で、組み合わせの種類も豊富です。

女性用下着のデザイナーとして知られる鴨居羊子さんは、カラフルでかつ機能的なナイロン素材のランジェリーを開発したことで知られています。身体にまといつくような不快をとりのぞき、動きやすいかたちのショーツなどもつくっているのだそうです。彼女は、当時主流として使われていたメリヤス製の下着に対して、このように書いています。

「実用的なことが同時に美しいというわけにはゆかんもんだろうか?」

実用的なことが同時に美しい。

まあ、美しいというのはおしゃれと同義ではありませんが……。

ただ、まさにこの言葉なんかは、ユニクロの製品の核をついた言葉だと思います。そして、これを実践する製品を開発し続けている企業こそ、僕はこれからのビジネスをひっぱっていける企業であると思います。例えば、Appleのハードウェアやユーザインタフェース、グンゼのBODY WILDなんかもその条件を満たしていますね。

さらにいえば、ここに共通するのは、もうひとつ、なにかの価値観を転換させる、ということかもしれません。