2010年7月23日金曜日

iPadを捨てよ、町に出よう

今日はちょっと、なんだかコムズカシイ感じの話で恐縮です。

デカルトとか出てきます。哲学の話です。僕も本当はあんまり哲学とか詳しい人じゃないんですが、大学の授業でメディア論という授業を受けていまして、そのつながりで少しそんな話を。

近代以降の哲学というのは、メディア論と重なる領域を持っていました。すなわち、問題は「どのように真理をみるのか」です。

当時、真理の獲得手段として用いられていた「信仰」に対して、デカルトは自己の存在を定式化することによって現れてくる「理性」こそ、真理探究の原点だと捉えました。

「我思う、ゆえに我あり」。

聞いたことがありますよね。哲学史上においてもっとも有名な命題です。

疑い得ないものだけを原点にして世界をつくりあげる――。

いまや「世界観」という言葉はありふれたものですが、当時において、世界を観ることは信仰の目を通さなければなりませんでした。個人の世界観など存在し得なかったのです。個人の「世界観」という概念を生み出したのは、デカルトさんの功績なのです。

たとえば、数学というのは確固たるもののひとつとして認識されがちです。

しかし、デカルトは数学さえ疑いました。神が人間を作ったとき(この創造神という前提を残しているところが、デカルトの近代的でない側面でありますが)、誤った数学についての認識をするように、人間をプログラムしているのかもしれない――。デカルトはそのように数学にさえも、懐疑心を持ち込んだのです。

絶対に保証できるのは、自分という存在が存在していることだけ。

ここで問題になるのは、僕たちが何かを認識するとき、数学のような絶対的と思われるような真理でさえも、自己の内側に潜む何かしらのフィルタ、自己の網膜とも言うべき何かしらの媒介を通してしか、把握することができないということです。

で。

現代の主流な哲学思想においては、個別の世界観に対する、こういうデカルト的な考えっていうのは、かえって大きな誤解や錯誤を引き起こす危険が強いと考えられていて、退けられがちです。

なぜか。

これは、一部の個人体験を過剰に信頼してしまうことが、ファシズムや極端な原理主義に繋がり兼ねないという危惧があるからです。つまり、世界を観るための媒体を、自己ひとつに依拠することは、リスクが大きい、ということなんですね。

僕もこの危惧には同意です。

自分の視点だけを信頼するのではなくて、より多様な視点を獲得することこそ、必要なことだと考えています。これ、いわゆる、多元論というやつです。

僕は投資におけるリスクヘッジに例えて考えることができるな、と思っています。

キーワードは「分散」です。

主に中長期的な投資を考えるとき、ひとつのものに集中投資する行動は、もっともやってはいけない投資行動のひとつだと言われています。ひとつの金融商品、株式、債券などに投資することは、投資対象の価値下落の際にリスクを回避できないからです。

よって、分散投資は金融投資の原則だと言われています。しかし、ひとつひとつの金融商品に個人で分散する手間も大きなコストであるため、分散投資のためのバランスを調整したパッケージ型の商品などが存在します。投資信託なんていうのはそれです。

これと同じことが、実は現代における媒体の選択においても可能です。世界を観るための媒体を分散させる、ということは、すなわち複数のメディアを通して事象を観察するということ。

これは僕たちがいまや日常的に行なっていることです。

インターネットを通じて、あらゆるところで濾過された情報を僕たちは消費しています。Google検索による機械的なページランク、Facebookやmixi、Twitterなどのソーシャルメディア。そういった、信頼可能で先進的な、より高度な分散手段を様々に組みあわせて、僕たちはインターネットを使っています。

そうして、「インターネット」というパッケージ型の投資信託を通して、僕たちは複数の媒体提供者を手にすることに成功しているといえるのではないでしょうか。

けれど、僕はここでもう一度立ち止まって考えたいのです。

複数の金融商品に分散投資を行っている投資信託でさえ、先に起きた大規模な金融危機のリスクを完全に回避することはできませんでした。

確かに、誤った投資先へ集中を行った投資家のように、大きな損害を被ったわけではありません。しかし、サブプライムローンの証券が、多くの金融商品と組み合わされて販売されており、多くの投資家は信用収縮による打撃をほとんど回避することができませんでした。

この原因は、多くの投資家が金融商品、その格付や保証といったものに対して、細部を見ようとする疑念を発揮しようとしないで、その業界全体の動きに対する過当な信頼を寄せていたことなんじゃないかと僕は思っています。

デカルト的な自己の「理性」をもう一度喚起し、サブプライム層に対する担保信用保証に対して、真理を見極める理性を、もう一度適用するべきであったのだと、僕は思います。

インターネットのソーシャルフィルタリングやによって得られる情報を、過当に信頼しがちな僕たち現代人。

僕たちにも、この投資信託の例と同じ観点を適用することが出来る、と僕は考えています。

卑近な例なのですけれど、僕自身の個人的な体験がそう。先日、エレクトロ・ワールドの歌詞についての記事でも少し書いたのですが。

ゲイデビューを果たし、複数のあらゆるゲイたちと新宿2丁目で交流することになって、僕がインターネットで得ていた世界観・価値観は変容しました。要は、僕自身にも、ゲイに対していろんな誤解や偏見があったんですよね。

インターネットによって知ることの出来る情報は、結局のところ、濃縮された「うわずみ」に過ぎないのだ、ということを、そのとき僕は学びました。

ゲイのことを知りたいのなら、やはり、自分の足でゲイたちに出会いに行くことが最も必要なのです。

宮崎駿は、スタジオジブリ発行の小冊子「熱風」のなかで、iPadを利用して情報収集をするというインタビュアーを、iPadをiナントカと呼び、痛烈に批判しました。

あなたの人権を無視するようですが、あなたには調べられません。なぜなら、安宅型軍船の雰囲気や、そこで汗まみれに櫓(やぐら)を押し続ける男達への感心も共感もあなたには無縁だからです。世界に対して、自分で出かけていって想像力を注ぎ込むことをしないで、上前だけをはねる道具としてiナントカを握りしめ、さすっているだけだからです。

僕は、自身の体験から、この宮崎駿の言説を強く支持します。

確かに、デカルトの「我」への唯一的な信頼感は危険だと僕も思います。

しかし、多元論的に、過剰に自分の世界観を、インターネットというツールをもって、他者の目線に分散して委託するだけでよいとは思いません。そうした行動は、僕たちを単なる消費者へと貶めかねないと思うのです。もしそうやって、消費者ばかりのインターネットになってしまっては、いったい何が面白いでしょうか。

ひとりひとりが、少しずつインターネットに、自分が獲得した生々しい言葉や色や音を吹き込むのです。

寺山 修司
角川書店
発売日:2004-06