2010年8月27日金曜日

月岡芳年の浮世絵から読みとく絵島生島事件の裏側

僕の大好きなドラマに「大奥」があります。

映画の「大奥」も見にいきました。 映画の「大奥」というと、よしながふみ原作・二宮和也&柴咲コウ主演の「大奥」を思い浮かべるかもしれません。

が、今回のブログの記事は、そちらではなく、仲間由紀恵主演の映画「大奥」に関係があります。仲間由紀恵主演の「大奥」で扱われた題材、絵島生島事件のおはなしです。

今日はちょっと歴史な感じの話。

みなさんは月岡芳年という浮世絵師をご存知でしょうか? 日本最後の浮世絵師と言われ、同時に日本最初のイラストレーターとも言われています。

昨年、「ららぽーと豊洲」の「平木浮世絵美術館 UKIYO-е TOKYO」にて、その月岡芳年の名品展が行われました。

「新撰東錦絵と竪二枚続」を副題に掲げて行われたその展覧会。そこで披露された作品のうちのひとつが「新撰東錦絵」シリーズの「生嶋新五郎之話」です。

「新撰東錦絵」は、浮世絵を横に二枚組み合わせた作品のシリーズです。「生嶋新五郎之話」も2枚で1枚の作品。男女が二階桟敷で仲睦まじくしている風景が描かれています。

左と右で2枚の絵からできています

左の絵で胸元をはだけた色男として描かれているのは生嶋新五郎です。

また右の絵で生島に目線を送る姿で描かれているのは江戸城大奥御年寄・絵島です。

そう、実はこの絵「生嶋新五郎之話」は「絵島生島事件」を描いたものなのです。

正徳4年1月12日(1714年2月26日)、七代将軍徳川家継の生母月光院に使えていた絵島たちが、寛永寺・増上寺への代参の帰りに木挽町の芝居小屋・山村座に立ち寄って、桟敷や座元の居宅で遊興し帰城したとして咎められました。

これが絵島生島事件です。

この事件は、疑獄事件であるとも言われていまして、そのために様々な説が存在します。

また、スキャンダル性ゆえに演劇や小説などの芸術娯楽作品の題材にとられることも多い事件としても知られています。

冒頭でお話しした仲間由紀恵主演の「大奥」では、絵島と生嶋新五郎の間に純愛が芽生えていたという設定で描かれています。

この絵島生島事件の語られ方には、いくつかのパターンがあります。

まず、ほぼすべての説に共通して出てくる見解として、

① 当時、月光院や絵島の権勢を好ましく思っていなかった、前将軍家宣の正室天英院派が事件を利用して勢力を挽回しようとした。

というものがあります。これは現在ではほぼ定説となっているようです。

問題は、事件をどこまで天英院派が操っていたのか、という点です。

たとえば、映画「大奥」では、

② 天英院派が生島との密会を積極的に誘導し、月光院派の勢力を削ぐため、意図的に事件を起こして騒ぎを大きくし、絵島を陥れた。

といった内容で、かなりの部分で絵島と生島に対し同情的な描かれ方がなされていました。

また、

③ 絵島が芝居小屋を訪れていたのは事実だとしても、淫行や酒宴などの報告はでっちあげではないか。

などという見解もあります。

この見解は「徳川実紀」の「薄暮に及びてかへりぬ」などといった記述から、酒によって夜遅く帰ったわけではないこと、そのほかいくつか疑わしい記述が存在することから考えられるもののようです。

しかし、「三王外記」ではおおむね次のように書かかれています。

④ 絵島は芝居小屋で酒宴し、江戸城の門限に遅れ、月光院のはからいで問題を一度回避した。しかし、後日の調査で絵島の「淫行」はその一日だけに留まらないことが明らかになり、厳しい処分を受けた。

また、「千代田城大奥」では、以下のようにその「淫行」がさらに派手に描かれており、絵島の処罰は致し方ないものだろうという書き方がなされています。

⑤ 絵島の「淫行」は実に開き直ったもので、酒宴も大騒ぎであった。あろうことか、増上寺から持参した金子までも花代に遣わした。帰城が遅れたことにも悪びれもしていなかった。また、代参に随行した御徒目付らは、この芝居見物や茶屋遊びを内密にしていると後日共犯に問われかねないということを恐れ、若年寄に報告をした。

この説によれば、天英院派の陰謀説はかなり薄いように描かれています。

ただ、実際の史料にも細部に様々な事実の相違があることが指摘されていることから、実際、真相を解き明かすことはかなり難しいようです。

たとえば、「江島実記」によれば「右衛門桜」を興行した際に、新五郎演じる丸橋忠弥が着用した小袖を所望し、その代わりに葵御紋付の小袖を与えたとありますが、伊原青々園の「歌舞伎年表」によれば、その時期の興行は「東海道大名曾我」であることがわかります。

このことより、新五郎の小袖をねだったというのは後日の作なのではないか、との疑いがあるようなのです。

様々な見解を取り上げましたが、多くの創作物などからも①の天英院派対月光院派の権力争いが事件の顛末を大きく動かしていたとする考え方が、ほとんど通説となっているようです。

しかし、天英院派とともに事件を動かした人間たちの狙いは、果たして絵島にばかり集中していたのでしょうか?

ここで、冒頭で取り上げた月岡芳年の浮世絵の名前を思い出してほしいのです。

生嶋新五郎之話」。

多くの史料においてこの事件は「絵島」の事件として語られているのですが、この浮世絵の名前には「生嶋」の名しか入っていないのです。

ここから僕は以下のように考えました。

おそらく民衆の間では、この事件は「生島」の事件であったのではないか、と。

正徳元年(1711年)の「役者大福帳」には、こうあります。

「名物男坂田藤十郎、大和屋甚兵衛、中村七三郎及び嵐三右衛門の四人相果てらるれば今が三津で濡れやつしこの人につづくはなし。濡れの中村七三郎の跡継ぎ、今の名物男は生島新五郎か」

ここから察するに生島の人気役者ぶりは相当なもののようなのです。

となれば、絵島の失墜をもって、月光院派の権力が失われたことの裏を考えるとどうでしょうか。

すなわち、生島をはじめとする山村座関係者への厳罰によって失われたものはなんだろうか、ということです。

幕府はこの事件をきっかけに、芝居道に厳格な制限を課しはじめたのです。

芝居小屋は簡素にし、桟敷は二階三階を作らず一階のみにするように、豪華な衣装は慎むように、演劇は日没までに終えるように、劇場近くに座敷のようなものを備えた茶店を作らぬように。遊興をすることも禁止し、俳優らは桟敷や茶店に招かれても行ってはならない――。

こういった取締りがその後の芝居道に大きな影響を与えたのであろうことは想像に難くありません。わが国演劇史上においても見逃すことのできない事件なのであります。

絵島たちを裁くことになった評定所の関係者たちは、絵島生島事件を利用して、江戸の風俗を取り締まろうとしたのではないでしょうか。

実はこのころ、江戸の風俗に対する取り締まりは非常に多くなっていたのです。

逆に言えばそれだけ、評定所は風俗に頭を悩ませていたのであろうと思われます。

特にこのころの幕府からの御触書には、性風俗や芝居に関するものがいくつもあるようです。

男色の禁止や、赤穂浪士を題材にした芝居の禁止などがお触れとして出されています。

このことから、江戸の性風俗をかねてから懸念していた幕府関係者にとっても、絵島生島事件はある意味好都合となる事件であったのではないかと考えられます。

山村座の取潰しや演劇への取り締まり強化までに至ったのには、「大奥内の権力争い」で済ませられないものがあるとしか考えにくいのです。

性風俗取締を強化したい幕府の人間と月光院派の思惑が一致したということが、もしかしたら重要なファクターだったのではないでしょうか。

それにしてももし月光院派の権力が実際よりもっと強く、それで絵島が無罪になっていれば、当時の文化がより色濃く現代にも伝わっていたかもしれません。

浮世絵の生島を見ても、胸をはだけさせてずいぶん男の色香がありますね。ああいった色香が現代に伝わらなかったのは実にもったいないように思います。

注)ブログ中に「絵島」「江島」および「生島」「生嶋」の表記のゆれが見られますが、誤りではありません。一般的な表記に従い、「絵島」と「生島」を採用しましたが、史料からの引用や書名等については、原文にしたがいました。なお、「江島」のほうが正確な表記だとされています。

ところで、よしながふみの「大奥」のコミックのほうでも、絵島生島事件は扱われるっぽいですね。

やっぱり陰謀な感じでいくのかな?



参考資料

山本博文『大奥学事始め―女のネットワークと力』(日本放送出版協会、二〇〇八年)
楠木誠一郎『江戸の御触書―生類憐みの令から人相書まで』(グラフ社、二〇〇八年)
山本博文『将軍と大奥 江戸城の「事件と暮らし」』(小学館、二〇〇七年)
高柳金芳『生活史叢書7 江戸城大奥の生活』(雄山閣出版、一九七〇年)
浅野妙子『大奥―OH!OKU』(角川書店、二〇〇六年)
船橋聖一『絵島生島』(新潮社、二〇〇七年)
重松一義『絵島高遠流罪始末』(日本行刑史研究会、一九七六年)
塩見鮮一郎『乞胸 : 江戸の辻芸人』(河出書房新社、二〇〇六年)
八文舎自笑、梅枝軒泊鴬『役者大福帳 京・大坂、江戸之巻』(大共同刊行、一八三一年)

2010年8月23日月曜日

モノに支払うカネ ヒトに支払うキモチ

勝間和代さんの影響なんかがずいぶん大きいと思うのですが、ここのところデフレが経済問題としてそこかしこで大きく語られています。

デフレってどういうことか。シンプルに言えば、モノよりもカネがありがたがられるってことですね。

で、この「モノ」にはなにが含まれているかというと、僕らの労働力なども含まれているわけです。企業は労働者からモノとしての労働力を買っているんですね。

ヒトをモノあつかいするな! という声が聞こえてきそうですが、僕は、ヒトをモノあつかいすることそのものは悪だと思っていません。

モノは「者」とも変換できます。「モノ」の概念にはヒトがある程度含まれているんじゃないかと僕は考えています。

分かりやすいところで言うと、コンビニやファーストフードショップで、ヒトは明らかにモノになっていると僕は思うのです。店員さんがヒト扱いされていないということだけではなく、お客さんもモノになっている。

もちろんそういう場でも、ヒト対ヒトのコミュニケーションが生まれることが皆無だとはいいません。コンビニの店員さんに道案内してもらったりとかね。

しかし、基本的には、お互いがモノという「てい」にしておくことで、やりとりが円滑になっています。

このなかでやりとりを円滑にする原則は「お互い」を「モノ」にしてしまうことです。

もし、一回一回の買い物の中でどちらかが相手をヒトだと思っていたら、あれほどぞんざいなやりとりに耐えられるわけがないんです。だからお互いを、ある程度の部分モノだってことにしてやりとりをすることで、うまくいく。

僕にとって店員さんはだいたいほとんどモノ。逆に店員さんからみた僕は、それよりももうちょっと、モノだろうな、と思います。

やりとりがうまくいかないケースは、だいたいその原則に不一致が起きていると思うのです。

コンビニ店員さんも、実際はヒトであるわけだから、ミスをするのは当然だし、コンピュータのような正確さはありません。

たとえばコンビニの店員さんが、列をうまくさばけなかったりするかもしれません。商品を手違いでだめにしてしまうかもしれません。急いでいるのに、トラブルで会計が遅れてしまうかもしれません。

その「ヒト」のミスに対して「ちょっと顔をしかめたりする」程度のことであれば、まあ、ある程度バランスがとれています。

「申し訳ありあせん」のヒトコトで、「ああ、コンビニの店員さんって大変そうだな」と気を許すのです。

それはそのとき、お互いに「実際はヒトだ」という認識が共有されるからです。その一瞬だけ、お互いがモノからヒトにもどるわけです。

このとき、お客さんの方だけが自分はヒトのつもりで、相手をモノだと思い続けていると、このバランスが崩れます。

「しょせん自動販売機ふぜいが、しょうもないミスしやがって!」という、モノに対するお客さんの怒りが炸裂するわけです。

ヒトとモノのバランスが崩れる、典型的なパターンです。

しかし、前述したように、こういうトラブルがあるからといって、ヒトをモノとしてとらえることを即悪だとするのは違うと僕は思います。

たとえば、人件費といういいかたに反発する人がいます。人件費をコストだとするなと。支払う僕たちをヒトとして扱えと。

感情的には共感できないこともないのですが、僕はやはり人件費という言いかたは適切だと思います。ヒトをコストだとしてとらえるしくみは、ありだとおもいます。「それでうまくいっていることがあるのだ」と思います。

それは、僕たちが、僕たちの給料を支払っている会社を「モノ」だと思っているからです。僕たちの多くが、会社を、働いたらおカネがそこから出てくる「モノ」だと思っています。

会社が僕たちをモノだと思うのと同じように、僕たちが会社をモノだと思っているとき、その金銭の支払いは円滑にうまくゆくのです。

けれど、実際には、働く僕たちがヒトであるように、僕たちに給与を支払うのもまた、ヒトです。そのおカネはヒトの手をわたって僕たちに届きます。

お客さんから渡されたオカネはレジにはいって、経営者というヒトや会計の担当というヒトが決めたしくみを流れて、給与の支払い担当のヒトが銀行のヒトに手続きをして、ようやく僕らの最寄のATMからおカネが引き出せます。

僕たちは、お給料をもらうときに、僕たちの労働からお給料がうまれるまでの過程にいるヒトをあんまり想像したりしません。そこではそのヒトたちの存在は無視されて、「会社というモノ」というざっくりとした認識です。

たぶん、働くなかで関係したお客さんや同僚や上司や部下だけがヒトであって、それ以外の「給料を僕たちに届けるしくみ」は「会社というモノ」なのです。

どうでしょうか?

ヒトをモノ扱いすることは、お互いにモノ扱いするときには有効なのです。

さて、問題は、デフレです。

モノよりもカネがありがたがられる。日常の中でこれだけ頻繁にモノになったりしている僕たちにとっては、これは大問題です。

モノがありがたがられるようになるには、どうしたらよいのでしょうか?

「モノ」がよりありがたがられるように努力する、のもその方法のひとつ。

ひとりひとりに最適な接客を産み出して、接客というありがたい「モノ」を豊かにすること。新しい技術を開発して、僕らの生活を豊かにするありがたい「モノ」をうみだすこと。

でも、それだけでは、僕は足りないんじゃないかなと思っています。いえ、むしろそれだけでは逆効果にもなります。そうすることで、いろんなモノが「ありがたく」なくなってしまうから。

デフレを解決するにはどうすればいいのか。シンプルには答えを書けませんし、僕にはそんな適切な解決方法を論じる有能さも欠けていると思います。

けれど、僕はあえてひとことでいうなら大切なのは「支払うキモチを育てること」だと思います。キーワードは「想像力」です。

結局精神論かよ、と思われそうですが。

2010年8月18日水曜日

タカナシの低温殺菌牛乳がおいしい件。

あずまきよひこの「よつばと!」という漫画が好きで、暇なときなんか、わりとなんども読み返したりしています。よつばという名前の女の子を中心に、子どもの愛らしさとか日常のあたたかさみたいなものを描いている漫画です。

で、この、よつばが好きなもののひとつに「牛乳」があります。牧場に乳しぼり体験しにいったりするシーンもあります。よつばの父ちゃんは、通販なんかを使ってちょっと高めな「おいしい牛乳」を買っていて、お隣さんにもおすそわけしたりしています。


牧場にいく7巻。
あずま きよひこ
メディアワークス
発売日:2007-09-27


で、この漫画を読んでいると、飲みたくなるんですよねー。おいしい牛乳が。

僕の日用品お買いものエリアは基本的に、スーパーと百円ローソンとドンキホーテ。パスタやオイルみたいな輸入物食材はドンキで購入し、特売の生鮮食品もろもろはスーパーで購入し、そしてあとはほとんど百円ローソンです。

なので、ほとんどの飲料は百円ローソンだったりするのですが、最近は牛乳だけは別なんです。百円ローソンに置いてある牛乳って、確かに安いのですが、低脂肪乳で正直あんまり美味しくないのです。ちゃんと飲みきれなかったりして、安物買いの銭失いになることもしばしば。

そこでスーパーの牛乳をいろいろと試して飲んでみたなかで「これは美味しい!」と、すっかり気に入ってしまって、わりとヘビーユーザーになっている牛乳があります。

これ。


タカナシの低温殺菌牛乳。

いやほんとに美味しい。僕がいままで美味しくない牛乳を飲んでいたせいもあるのかもしれませんが、この牛乳がほんとに美味しいんです。

美味しい牛乳だというと、濃い味の濃厚なミルクなんかを想像するような人も多いと思うんですが、この牛乳は逆で、めっちゃすっきりしてるんです。後味がさわやかで、口の中に残る感じとかがほとんどしません。だから結構ごくごくと飲めてしまうのです。

牛乳って、別に嫌いだったというわけじゃないのですが、今まではなんか「あえて飲みたい」という飲み物ではなかったんですよね。コーヒーにいれたり、ココアやラテみたいな感じで牛乳を使うことはあっても、牛乳そのままで飲むのは、特に好きじゃありませんでした。

もしかしたら、給食のイメージが強かったのかもしれません。毎日毎日同じ牛乳を飲んでいたので、子どものころから「あえて飲みたい飲み物」っていうイメージが、牛乳にはぜんぜんなかったんですよね。

ほんとちょっと高めではあるんですけど、このタカナシの低温殺菌牛乳はおすすめです。

なんか今日、ちょっと広告みたいな記事なんですけど、ぜんぜんタカナシのまわしものとかじゃないので安心してください(笑)

分散の退屈(⇔集中の熱狂)

僕はあまねくギャンブルには、ほとんど手を出したことがなかったりします。

パチンコもしたことがないし、競馬も麻雀も知りません。それらに手を出したことがないのは、別にギャンブル的な行為が嫌いだということではなくて、それらの遊戯そのものがあまり面白そうに見えなかったということが大きいです。

馬のレースにも、パチンコ玉のガチャガチャうごくのにも、正直なところそんなに興味が持てません。そのうえ、胴元があんなに儲かっている様子や、新機種の投入コストや競走馬の育成コストを考えると「勝率ものすごく低いんだろうなあ……」と冷めてしまって、手を出せないのです。パチンコ店はとにかくうるさそうだし、競馬場もなんだか億劫です。

唯一、麻雀なんかは面白そうかもと思っているのですが、残念ながら、今まで一度も麻雀に誘われたことがありませんでした。ルールも知らないし。

ギャンブルに手を出したことがない――とはいえ、僕は賭けごとがとても熱狂的で楽しいものであることを否定しません。むしろ僕自身は、本来的には相当賭けごと好きな人間だと思います。

リスクをとって、リターンを得る。これ、賭けごとの原則です。

この原則というのは、金銭や物品をかけた賭博行為に限らず、生きているなかで起こりうるさまざまな「選択」にも関わってきます。

人生の中で起こりうる「選択」の賭けごとは、そのときどきによって、リスクとリターンのなかみは変わります。いつもいつも金銭というわけではありません。

たとえば勉強であれば、「時間」を投資するというリスクをとって、「学習効果」というリターンを得ることができます。なにかに時間をかけるということは、実は賭けごと的な性質をもっているんですね。

この「時間をかける」という行為を、一種の投資行動として考えてみたときに、僕が思い出すのは「分散」というキーワードです。

投資の手法には「分散投資」という手法があります。その名の通り、複数の金融商品に自己資金を分散して投資する行為です。ひとつのものだけに集中して投資を行うと、なんらかの要因で投資対象の価値が急激に下落してしまったときに、甚大なダメージをこうむってしまうので、リスクを分散させるために行われます。

そしてこれは確かに効果的なやり方であると僕は思います。

これを「時間やエネルギーの投資」で例えてみます。リターンはおおざっぱに「幸福感」で考えることにします。

僕らが「時間やエネルギーをかける」対象はなにがあるでしょうか。ざっくりと思いつくだけでも、恋愛、仕事、趣味、友人関係……といったようにいくつかあります。

いずれかの対象に、自分の持てる時間やエネルギーを集中投資したらどうなるでしょうか。

もちろん、うまくいくときもあります。恋愛に自分の時間やエネルギーをたっぷりとついやして幸福感を得ることができたり、仕事に時間やエネルギーをたっぷりとついやして幸福感を得られることもあると思います。

しかし、恋人とうまくいかなかったとき、仕事がうまくいかなったとき、そのときに受けるダメージは甚大なものです。もしもこのとき、他のものにもちゃんと時間やエネルギーをかけていたら、そのダメージを軽減することができます。友人関係にもちゃんと時間とエネルギーをかけていたら、失恋のダメージを軽減することができるでしょう。趣味にもちゃんと時間とエネルギーをかけていたら、仕事のやりがいをうしなってしまったときも、新しい自分の生きかたを模索するのに役立つと思います。

こういった考え方を踏まえると、確かに、分散という行為は確かに合理的であるように思えます。

けれど……、僕は、熱狂的な賭けごとの魅力って、あると思うのです。

複数のものに複数の賭けかたをするのではなくて、自分がこれだと思うやりかたに集中して、熱狂的に投資するということの魅力って、なかなか他のなにものにも代えがたいものです。

仕事に熱狂して打ち込むとか、恋愛に全力投球するとか、そういうことで得られるものの喜びって、たぶん、分散してそれぞれから得たリターンの総和よりも、すごく大きいものだろうと思うのです。

おおきいリスクをとる行為なので、リターンがおおきいというのも自然な話です。

リスクをとるということは、自己責任をとるということ。リターンというのはかえってくるもの。かえってくるものに対応する力が、責任(Responsibility=対応可能性)というものです。

以前に書いた、対応可能性を育てるということの話ともつながる話ですが、僕が対応可能性を育てたいと思うのは、すなわち、もっと大きな博打が張れるようになりたいということなのかもしれません。

最近の僕はわりと集中投資を避けながら生活しています。

大事なモノを複数もっていて、それぞれにそれなりにエネルギーや時間をかけています。ブログだってそのひとつ。

けれど、最近、何か熱狂的なものが足りないなと感じてきました。コレだ!と思えるような、熱狂的に集中投資しようと思えるなにかが欲しい、ちょっといまの僕は、そんな感じです。頑張って、責任取れる男になるので。

2010年8月17日火曜日

かもめ食堂からまなぶベンチャー精神

僕の好きな映画に「かもめ食堂」という映画があります。監督は荻上直子さん。

僕がこの監督をはじめてしったのは、ぴあフィルムフェスティバルの「バーバー吉野」のときでした。その監督が新作を撮った、しかもこのメンツ(小林聡美、片桐はいり、もたいまさこ)で撮ったというので、公開初日に、いそいそとひとりで観にゆきました。

「かもめ食堂」が好きな僕は、もちろん「すいか」も好きで「セクシーボイスアンドロボ」も好きで……という話も出来るのですが、今日はこの「かもめ食堂」の話。

この映画「かもめ食堂」は北欧のフィンランドのヘルシンキを舞台に食堂を開く女性のおはなしです。素敵な風景や音楽や自然や美味しい食べ物、ゆったりと流れる時間や空間、とても心地の良さそうないきいきとした暮らしを描いています。

この映画では、あんまり主人公が苦労している様子とか、そういうところってあんまり描かれません。それをリアリティの欠如みたいな言い方で批判する人もいるのかなあ、なんて考えたりもするのですが、僕はそうは考えていません。この主人公の力強い自由さ、心の余地の大きさ、そういったものが、この映画に、常に豊かな幸福感をまとわせているのだなあと僕は思います。

このかもめ食堂って、実は相当なチャレンジャー企業なんですよね。日本のソウルフード・おにぎりという製品を、フィンランドで展開している、いうなればベンチャー企業なわけです。豚のしょうが焼きなんかも出しています。

日本ではほとんど教材もないようなフィンランド語を勉強し(実は、僕はフィンランド語学習に手を出したことがあるのですが、まるで歯が立ちませんでした)、店舗を契約し、飲食業を開業する――映画ではその主人公の強いバイタリティは積極的には描かれていませんが、それを僕は以下のセリフに垣間見ることが出来ました。

「毎日 まじめにやってれば、そのうちお客さんも来るようになりますよ。それでも だめなら その時はその時。やめちゃいます。でも大丈夫。」

ね。すごいでしょう。

美味しいものをたべて、笑顔でしゃんとして、人を受け入れる余地を広げていく――。僕はこれって並大抵のことでできるようなことじゃないと思うんですね。

かもめ食堂のスタンスは「フツーのものを、きちんとつくる」。

もちろんフィクションなので「実際にはこんなうまくなんかいかないよ」なんて批判もあるだろうとは思うのですが、何かしらふっくらとした希望のようなものを与えてくれる作品だなあと僕は感じました。

荻上直子
バップ
発売日:2006-09-27

その荻上直子監督は、最新作の『トイレット』を今月、8月28日に公開する予定だそうです。かもめ食堂にも出演している、もたいまさこさんが出演するみたいです。

プライドパレードお疲れさま&Googleの協賛ステッカーが超かわいい件。

今日は東京プライドパレードの話。久しぶりのブログ更新です。

僕はWoopraというわりと詳細なアクセス解析を使っているのですが、更新していないあいだにアクセスがあるのは、それなりに心が痛むものですね。日記であれば書くことはそれなりにあるのですが、僕の場合それはTwitterに流してしまうんで、うっかり更新が滞っておりました。

そのTwitterで僕をフォローのかたがたは御存知のように、先週末は東京プライドパレードを出来たばかりの彼氏くんと一緒に練り歩かせていただきました。

ほんとうに多くの人達が沿道から手を振り、声をかけ、歩いている僕たちを歓迎してくれました。突然の騒がしい行進に反感を覚えてもよさそうなのに、たまたまそこにいた通行人の人たちからも、一緒に笑顔で手を振ってくれたり、といったアクションをもらえました。

沿道から見守ってくれた僕の友人たちからも、「まさひろー、わかれろー!」「リア充は氏ねー!」「ホモのくせになまいきだー!」といったような ”たいへんあたたかい声援” を浴びつつ、無事に渋谷~原宿の街を、ふたりで手をつないで歩ききりましたっ。

本当にいい思い出を作れました。結構な距離を歩いたはずなのに、ほんとうにあっという間でした。

パレードの実行委員会のひとたち、ほんとうにありがとうございました。これだけの規模のパレードを企画し、実行までこぎつけるには、本当に多大な労力と時間がかかるだろうと想像にかたくありません。いやほんとすごいですよ。

ごみ捨て場や救護のテントといったような、パレードのはなやかなところから離れたようなところでも、地道ながら笑顔でいきいきと作業をしていたスタッフさんたち、ほんとうに素敵なイベントをありがとうございました。

いやもう普通にめっちゃ楽しいお祭でした。焼きそばもたこ焼きも食べたし、久しぶりにあうような友だちにも何人か再会できました。

ところで、このプライドパレードに協賛したいくつかの企業の話。

同性愛者に向けた家族割引を提供しているソフトバンクは、ブースの出店だけでなく、パレードの通りにある表参道店の入り口にレインボーフラッグを掲げて歓迎するなど、いつもながら大変嬉しいアクションを用意してくれました。ソフトバンクのLGBTにフレンドリーな姿勢については、以前にも記事にしたとおりです。

そのほかでは、まず、個人的にたいへん印象深かったのは、僕の愛してやまない企業であるGoogleの協賛でした。

Googleは、同性愛者のための様々な施策を行っている企業のひとつです。婚姻関係にない同棲パートナーをもつ同性愛者にむけて、医療保険等に置いて婚姻カップルが受けることのできる税控除と同等の給与アップを実施したりしています。つまり、同性愛者カップルと婚姻カップルのあいだにある納税格差を埋めてるってワケ。すてき!

今回、そのGoogleがパレードに向けて用意した、Androidのキャラクターステッカーが、これ!!

今回、Googleが用意したステッカー。このふたり、同じかたちだから同性愛者の設定なのかもー。

か、かわいい……!!!

いつか日本で「これだ!」と思えるようなAndroidマシンを手に入れることができたら、そのときはこいつを貼って使いたいですねー!

ていうか、ググってたらこんなツイート見つけて、Tシャツ売ってたのかー!と今更気づいたりしました。僕がいったときにはもうなかったかも……。


俺も欲しかった……。

ところで、Googleは仮想通貨プラットフォームを買収し、AppleはNFCの専門家を採用してこれにからんだ特許を続々と申請しているようで。

電子マネーに仮想通貨、これから競争が加速しそうですねえ。

2010年8月6日金曜日

nanapiワークスで記事を書いています。

nanapiというHow toを集めたウェブサービスがあるのですが、そのnanapiが先日はじめたばかりのnanapiワークスというウェブサービスを利用して、いくつか記事をかかせていただきました。

プロのライターさんから見れば原稿料は非常に安いのですが、アマチュアのブロガーでしかないような僕からみると、非常に魅力的なシステムです。

普段ブログに文章を書いても、入るのか入らないのかわからないようなアフィリエイト収入くらいしか期待できないのに対して、nanapiワークスに記事を書くと、記事一本あたり数百円の収入とアクセス数に応じたボーナスをもらえます。

個人的に魅力なのは、書いた記事に対して、ちゃんと編集部からの添削やコメントがもらえるということですね。編集部が添削を行って、記事に対する評価もABCで付けてもらえます。ライターとしてのスキルアップを考えているかたには、僕はおすすめできると思います。

以下、いままでnanapiワークスから書いた記事のリストです。


これからもちょくちょく書いていくと思います。よかったらアクセスして、「いいね!」の評価をつけてください。よろしくお願いしまーす。

2010年8月3日火曜日

僕たちの中の小さな神様、対応可能性を育てるということ

いま、僕は自分を何とか出来ている、と思っているけれど。

でも、世の中ってしんどい。まじしんどい。そう思いません?

友だちとご飯を食べたり、好きな人と好きあうことが出来たり、幸福なときもたくさんあるんですけど、でも、不幸が多すぎる。なんか僕の周りには苦しさに追われてる人が多い気がするのです。僕にはそれをどうにかするだけの財力も知恵も余裕もなんにもなくて、僕自分ひとりだってどうにかするのに精一杯で(どうにかなってるわけじゃないけど)、そんな「どうにかする」なんてだいそれたことかもしれないけれど、でもやっぱり歯がゆい時がいっぱいあります。

舞城王太郎じゃないけど、なんでもっとみんな幸せになれないんだ。僕のまわりにいるすべてのひとが、おいしいものが食べられて、ぐっすり眠れて、あたたかい場所で、あるいは涼しい場所で、すきな人たちと笑顔で、ほがらかにおだやかに過ごせればいいのにって本気で思います。

神様がいると思っているわけではないんですけど、もしこの世に全知全能の神様がいるとしたなら、ものすごく残酷ですよね。そんなやつを信仰するなんて俺には無理。今日食べるものに苦しんでいる子どもとか、育児に疲れて気が狂いそうになっている若い母親とか、いじめられて孤立して死ぬことばっかり想像してる中学生とか、仕事におわれながら自分の価値を見いだせずに苦しんで自己否定のスパイラルに陥ってる末端の労働者とか、そういうのもうぜんぶひっくるめて救いやがれ。話はそれからだ。とか思うのです。

僕の知る限り神様なんてのはいません。

ただ、苦しさを癒すものが神様ならば。そしてヤオヨロズの神と言わんばかりに、あらゆるところに神がおわしますのならば。もしかしたら、神様かもしれないと思う「なにか」にはたまに出会っている気がします。

それは、つらいときに一緒に寄り添ってくれる親友たちであり、僕を必要としてくれる職場のひとたちであり、家族であり、恋人であり、二丁目のママたちや一緒に活動する仲間たちであり――そういう、僕と関わってくれて、一緒に楽しい時を分かち合ってくれる人たち。さらに言ってしまえば、美味しいご飯をつくってくれるお店の人や、着心地のいい服をつくってくれる洋服屋さんや、友だちとの会話を楽しめる楽しめるカフェだってそう。

要は結局僕たち自身が神様になってるわけだ、と思う。

で、本題。

いまchikirinの日記を発端に、23歳のシングルマザーが二人の子どもを死なせてしまった事件が、多くのネットユーザーたちのあいだで話題になっています。

子どもの貧困、子どもを抱えることの貧困。

僕の言うこの貧困っていうのは、ただ単に、お金がなくて苦しいということだけではなくて、友人関係をはじめとするあらゆる社会的なつながりの豊かさが損なわれていることも指します。

いまこの国では、子どもを抱えることが、貧困につながってしまう。子どもでいることが、貧困につながってしまう。

僕は、多くの人は、ある程度、自己責任で生きるほうがいいと思う人間です。

それは、決して人に厳しいということではなくて、むしろ逆。

人は自分で責任をとって、リスクを取って生きる方が、より幸せになれると思うのです。

人付き合いでも、仕事でも、なんでも、自分の中に責任を設定すること。責任は英語ではresponsibilityだけど、つまるところ「対応可能性」。自分の行動の結果、いいことが返ってきても、わるいことか返ってきても、それを受け止める、そういう余地を増やしていく。それが自分で責任を負えるようになっていくということ。ひいてはオトナになるということ。

けれど、自己責任をとらせてはいけない、そういうセグメントは確実にあります。

社会で、ひとりひとりが、この手の届く距離で、余地があるときだけ、八百万ぶんのいちの神様を演じて、支えなければ、というところが確実にあります。それは自分の中に「対応可能性」がちゃんと育っていない人たち。対応しきれないものを抱えてしまった人たち。

たとえば、病気を抱えた人。

たとえば、子ども。

たとえば、シングルマザー。

彼ら彼女らの責任を、社会が、つまりは僕たちが、あなたたちが、担うことが大切だと思う。対応可能性をもつことが大事だと思うのです。

責任をもつ力とは、かえってくるいいことも、わるいことも、受け止める、そういう力です。

僕はそれを、八百万ぶんの一の神様みたいなものだと思う。


僕の親しい友人である中村うさぎさんが、シングルマザーとゲイのあいだでのかけはしをつくるネットワークについて、呼びかけをしていました。

ゲイは子どもを産めません。けれど、そのことで、子どもに対してどのように関わっていくかということを、考えていきたいと思っているゲイは意外と多くいると思います。

シングルマザーの気持ちは、たぶん僕にはなかなか分からないと思う。けれど、ノンケ男と分かちあえないようなことが、彼女たちにあるのなら、もしかしたらゲイは、彼女たちにとって、ひとつの豊かなつながりになれるのかもしれない、とも思います。

多様な家族のかたちの大切さを、知っている人も多いから。


阿部 彩
岩波書店
発売日:2008-11