2010年8月23日月曜日

モノに支払うカネ ヒトに支払うキモチ

勝間和代さんの影響なんかがずいぶん大きいと思うのですが、ここのところデフレが経済問題としてそこかしこで大きく語られています。

デフレってどういうことか。シンプルに言えば、モノよりもカネがありがたがられるってことですね。

で、この「モノ」にはなにが含まれているかというと、僕らの労働力なども含まれているわけです。企業は労働者からモノとしての労働力を買っているんですね。

ヒトをモノあつかいするな! という声が聞こえてきそうですが、僕は、ヒトをモノあつかいすることそのものは悪だと思っていません。

モノは「者」とも変換できます。「モノ」の概念にはヒトがある程度含まれているんじゃないかと僕は考えています。

分かりやすいところで言うと、コンビニやファーストフードショップで、ヒトは明らかにモノになっていると僕は思うのです。店員さんがヒト扱いされていないということだけではなく、お客さんもモノになっている。

もちろんそういう場でも、ヒト対ヒトのコミュニケーションが生まれることが皆無だとはいいません。コンビニの店員さんに道案内してもらったりとかね。

しかし、基本的には、お互いがモノという「てい」にしておくことで、やりとりが円滑になっています。

このなかでやりとりを円滑にする原則は「お互い」を「モノ」にしてしまうことです。

もし、一回一回の買い物の中でどちらかが相手をヒトだと思っていたら、あれほどぞんざいなやりとりに耐えられるわけがないんです。だからお互いを、ある程度の部分モノだってことにしてやりとりをすることで、うまくいく。

僕にとって店員さんはだいたいほとんどモノ。逆に店員さんからみた僕は、それよりももうちょっと、モノだろうな、と思います。

やりとりがうまくいかないケースは、だいたいその原則に不一致が起きていると思うのです。

コンビニ店員さんも、実際はヒトであるわけだから、ミスをするのは当然だし、コンピュータのような正確さはありません。

たとえばコンビニの店員さんが、列をうまくさばけなかったりするかもしれません。商品を手違いでだめにしてしまうかもしれません。急いでいるのに、トラブルで会計が遅れてしまうかもしれません。

その「ヒト」のミスに対して「ちょっと顔をしかめたりする」程度のことであれば、まあ、ある程度バランスがとれています。

「申し訳ありあせん」のヒトコトで、「ああ、コンビニの店員さんって大変そうだな」と気を許すのです。

それはそのとき、お互いに「実際はヒトだ」という認識が共有されるからです。その一瞬だけ、お互いがモノからヒトにもどるわけです。

このとき、お客さんの方だけが自分はヒトのつもりで、相手をモノだと思い続けていると、このバランスが崩れます。

「しょせん自動販売機ふぜいが、しょうもないミスしやがって!」という、モノに対するお客さんの怒りが炸裂するわけです。

ヒトとモノのバランスが崩れる、典型的なパターンです。

しかし、前述したように、こういうトラブルがあるからといって、ヒトをモノとしてとらえることを即悪だとするのは違うと僕は思います。

たとえば、人件費といういいかたに反発する人がいます。人件費をコストだとするなと。支払う僕たちをヒトとして扱えと。

感情的には共感できないこともないのですが、僕はやはり人件費という言いかたは適切だと思います。ヒトをコストだとしてとらえるしくみは、ありだとおもいます。「それでうまくいっていることがあるのだ」と思います。

それは、僕たちが、僕たちの給料を支払っている会社を「モノ」だと思っているからです。僕たちの多くが、会社を、働いたらおカネがそこから出てくる「モノ」だと思っています。

会社が僕たちをモノだと思うのと同じように、僕たちが会社をモノだと思っているとき、その金銭の支払いは円滑にうまくゆくのです。

けれど、実際には、働く僕たちがヒトであるように、僕たちに給与を支払うのもまた、ヒトです。そのおカネはヒトの手をわたって僕たちに届きます。

お客さんから渡されたオカネはレジにはいって、経営者というヒトや会計の担当というヒトが決めたしくみを流れて、給与の支払い担当のヒトが銀行のヒトに手続きをして、ようやく僕らの最寄のATMからおカネが引き出せます。

僕たちは、お給料をもらうときに、僕たちの労働からお給料がうまれるまでの過程にいるヒトをあんまり想像したりしません。そこではそのヒトたちの存在は無視されて、「会社というモノ」というざっくりとした認識です。

たぶん、働くなかで関係したお客さんや同僚や上司や部下だけがヒトであって、それ以外の「給料を僕たちに届けるしくみ」は「会社というモノ」なのです。

どうでしょうか?

ヒトをモノ扱いすることは、お互いにモノ扱いするときには有効なのです。

さて、問題は、デフレです。

モノよりもカネがありがたがられる。日常の中でこれだけ頻繁にモノになったりしている僕たちにとっては、これは大問題です。

モノがありがたがられるようになるには、どうしたらよいのでしょうか?

「モノ」がよりありがたがられるように努力する、のもその方法のひとつ。

ひとりひとりに最適な接客を産み出して、接客というありがたい「モノ」を豊かにすること。新しい技術を開発して、僕らの生活を豊かにするありがたい「モノ」をうみだすこと。

でも、それだけでは、僕は足りないんじゃないかなと思っています。いえ、むしろそれだけでは逆効果にもなります。そうすることで、いろんなモノが「ありがたく」なくなってしまうから。

デフレを解決するにはどうすればいいのか。シンプルには答えを書けませんし、僕にはそんな適切な解決方法を論じる有能さも欠けていると思います。

けれど、僕はあえてひとことでいうなら大切なのは「支払うキモチを育てること」だと思います。キーワードは「想像力」です。

結局精神論かよ、と思われそうですが。