2010年8月27日金曜日

月岡芳年の浮世絵から読みとく絵島生島事件の裏側

僕の大好きなドラマに「大奥」があります。

映画の「大奥」も見にいきました。 映画の「大奥」というと、よしながふみ原作・二宮和也&柴咲コウ主演の「大奥」を思い浮かべるかもしれません。

が、今回のブログの記事は、そちらではなく、仲間由紀恵主演の映画「大奥」に関係があります。仲間由紀恵主演の「大奥」で扱われた題材、絵島生島事件のおはなしです。

今日はちょっと歴史な感じの話。

みなさんは月岡芳年という浮世絵師をご存知でしょうか? 日本最後の浮世絵師と言われ、同時に日本最初のイラストレーターとも言われています。

昨年、「ららぽーと豊洲」の「平木浮世絵美術館 UKIYO-е TOKYO」にて、その月岡芳年の名品展が行われました。

「新撰東錦絵と竪二枚続」を副題に掲げて行われたその展覧会。そこで披露された作品のうちのひとつが「新撰東錦絵」シリーズの「生嶋新五郎之話」です。

「新撰東錦絵」は、浮世絵を横に二枚組み合わせた作品のシリーズです。「生嶋新五郎之話」も2枚で1枚の作品。男女が二階桟敷で仲睦まじくしている風景が描かれています。

左と右で2枚の絵からできています

左の絵で胸元をはだけた色男として描かれているのは生嶋新五郎です。

また右の絵で生島に目線を送る姿で描かれているのは江戸城大奥御年寄・絵島です。

そう、実はこの絵「生嶋新五郎之話」は「絵島生島事件」を描いたものなのです。

正徳4年1月12日(1714年2月26日)、七代将軍徳川家継の生母月光院に使えていた絵島たちが、寛永寺・増上寺への代参の帰りに木挽町の芝居小屋・山村座に立ち寄って、桟敷や座元の居宅で遊興し帰城したとして咎められました。

これが絵島生島事件です。

この事件は、疑獄事件であるとも言われていまして、そのために様々な説が存在します。

また、スキャンダル性ゆえに演劇や小説などの芸術娯楽作品の題材にとられることも多い事件としても知られています。

冒頭でお話しした仲間由紀恵主演の「大奥」では、絵島と生嶋新五郎の間に純愛が芽生えていたという設定で描かれています。

この絵島生島事件の語られ方には、いくつかのパターンがあります。

まず、ほぼすべての説に共通して出てくる見解として、

① 当時、月光院や絵島の権勢を好ましく思っていなかった、前将軍家宣の正室天英院派が事件を利用して勢力を挽回しようとした。

というものがあります。これは現在ではほぼ定説となっているようです。

問題は、事件をどこまで天英院派が操っていたのか、という点です。

たとえば、映画「大奥」では、

② 天英院派が生島との密会を積極的に誘導し、月光院派の勢力を削ぐため、意図的に事件を起こして騒ぎを大きくし、絵島を陥れた。

といった内容で、かなりの部分で絵島と生島に対し同情的な描かれ方がなされていました。

また、

③ 絵島が芝居小屋を訪れていたのは事実だとしても、淫行や酒宴などの報告はでっちあげではないか。

などという見解もあります。

この見解は「徳川実紀」の「薄暮に及びてかへりぬ」などといった記述から、酒によって夜遅く帰ったわけではないこと、そのほかいくつか疑わしい記述が存在することから考えられるもののようです。

しかし、「三王外記」ではおおむね次のように書かかれています。

④ 絵島は芝居小屋で酒宴し、江戸城の門限に遅れ、月光院のはからいで問題を一度回避した。しかし、後日の調査で絵島の「淫行」はその一日だけに留まらないことが明らかになり、厳しい処分を受けた。

また、「千代田城大奥」では、以下のようにその「淫行」がさらに派手に描かれており、絵島の処罰は致し方ないものだろうという書き方がなされています。

⑤ 絵島の「淫行」は実に開き直ったもので、酒宴も大騒ぎであった。あろうことか、増上寺から持参した金子までも花代に遣わした。帰城が遅れたことにも悪びれもしていなかった。また、代参に随行した御徒目付らは、この芝居見物や茶屋遊びを内密にしていると後日共犯に問われかねないということを恐れ、若年寄に報告をした。

この説によれば、天英院派の陰謀説はかなり薄いように描かれています。

ただ、実際の史料にも細部に様々な事実の相違があることが指摘されていることから、実際、真相を解き明かすことはかなり難しいようです。

たとえば、「江島実記」によれば「右衛門桜」を興行した際に、新五郎演じる丸橋忠弥が着用した小袖を所望し、その代わりに葵御紋付の小袖を与えたとありますが、伊原青々園の「歌舞伎年表」によれば、その時期の興行は「東海道大名曾我」であることがわかります。

このことより、新五郎の小袖をねだったというのは後日の作なのではないか、との疑いがあるようなのです。

様々な見解を取り上げましたが、多くの創作物などからも①の天英院派対月光院派の権力争いが事件の顛末を大きく動かしていたとする考え方が、ほとんど通説となっているようです。

しかし、天英院派とともに事件を動かした人間たちの狙いは、果たして絵島にばかり集中していたのでしょうか?

ここで、冒頭で取り上げた月岡芳年の浮世絵の名前を思い出してほしいのです。

生嶋新五郎之話」。

多くの史料においてこの事件は「絵島」の事件として語られているのですが、この浮世絵の名前には「生嶋」の名しか入っていないのです。

ここから僕は以下のように考えました。

おそらく民衆の間では、この事件は「生島」の事件であったのではないか、と。

正徳元年(1711年)の「役者大福帳」には、こうあります。

「名物男坂田藤十郎、大和屋甚兵衛、中村七三郎及び嵐三右衛門の四人相果てらるれば今が三津で濡れやつしこの人につづくはなし。濡れの中村七三郎の跡継ぎ、今の名物男は生島新五郎か」

ここから察するに生島の人気役者ぶりは相当なもののようなのです。

となれば、絵島の失墜をもって、月光院派の権力が失われたことの裏を考えるとどうでしょうか。

すなわち、生島をはじめとする山村座関係者への厳罰によって失われたものはなんだろうか、ということです。

幕府はこの事件をきっかけに、芝居道に厳格な制限を課しはじめたのです。

芝居小屋は簡素にし、桟敷は二階三階を作らず一階のみにするように、豪華な衣装は慎むように、演劇は日没までに終えるように、劇場近くに座敷のようなものを備えた茶店を作らぬように。遊興をすることも禁止し、俳優らは桟敷や茶店に招かれても行ってはならない――。

こういった取締りがその後の芝居道に大きな影響を与えたのであろうことは想像に難くありません。わが国演劇史上においても見逃すことのできない事件なのであります。

絵島たちを裁くことになった評定所の関係者たちは、絵島生島事件を利用して、江戸の風俗を取り締まろうとしたのではないでしょうか。

実はこのころ、江戸の風俗に対する取り締まりは非常に多くなっていたのです。

逆に言えばそれだけ、評定所は風俗に頭を悩ませていたのであろうと思われます。

特にこのころの幕府からの御触書には、性風俗や芝居に関するものがいくつもあるようです。

男色の禁止や、赤穂浪士を題材にした芝居の禁止などがお触れとして出されています。

このことから、江戸の性風俗をかねてから懸念していた幕府関係者にとっても、絵島生島事件はある意味好都合となる事件であったのではないかと考えられます。

山村座の取潰しや演劇への取り締まり強化までに至ったのには、「大奥内の権力争い」で済ませられないものがあるとしか考えにくいのです。

性風俗取締を強化したい幕府の人間と月光院派の思惑が一致したということが、もしかしたら重要なファクターだったのではないでしょうか。

それにしてももし月光院派の権力が実際よりもっと強く、それで絵島が無罪になっていれば、当時の文化がより色濃く現代にも伝わっていたかもしれません。

浮世絵の生島を見ても、胸をはだけさせてずいぶん男の色香がありますね。ああいった色香が現代に伝わらなかったのは実にもったいないように思います。

注)ブログ中に「絵島」「江島」および「生島」「生嶋」の表記のゆれが見られますが、誤りではありません。一般的な表記に従い、「絵島」と「生島」を採用しましたが、史料からの引用や書名等については、原文にしたがいました。なお、「江島」のほうが正確な表記だとされています。

ところで、よしながふみの「大奥」のコミックのほうでも、絵島生島事件は扱われるっぽいですね。

やっぱり陰謀な感じでいくのかな?



参考資料

山本博文『大奥学事始め―女のネットワークと力』(日本放送出版協会、二〇〇八年)
楠木誠一郎『江戸の御触書―生類憐みの令から人相書まで』(グラフ社、二〇〇八年)
山本博文『将軍と大奥 江戸城の「事件と暮らし」』(小学館、二〇〇七年)
高柳金芳『生活史叢書7 江戸城大奥の生活』(雄山閣出版、一九七〇年)
浅野妙子『大奥―OH!OKU』(角川書店、二〇〇六年)
船橋聖一『絵島生島』(新潮社、二〇〇七年)
重松一義『絵島高遠流罪始末』(日本行刑史研究会、一九七六年)
塩見鮮一郎『乞胸 : 江戸の辻芸人』(河出書房新社、二〇〇六年)
八文舎自笑、梅枝軒泊鴬『役者大福帳 京・大坂、江戸之巻』(大共同刊行、一八三一年)