2010年9月28日火曜日

多様性から多角性へ

尖閣諸島問題が報じられ、多くのメディアで報じられてからしばらく、僕は自分の考えをまとめきれずにいました。

僕が観測する限りの世論は、中国側の態度を強烈に批判し、さらにその中国に強硬な態度をとらない日本政府の態度を批判するというものが大半。主にTwitterやブログ、ニュースメディアのコメントや2chのまとめなどで、ネットユーザたちの反応を観測していました。

僕は、報道とネット上での世論をウォッチしながら、なんとも言えぬ思いでした。考えていたのは「こんな世論はなにか間違っている」とだけ。

しかし、語気を荒くして中国の態度や日本の対応を諤々と非難する文章に対して、反論するだけの気力もなければ、そもそもそれを「間違っている」と言えるだけの、論理的なバックグラウンドが僕にはありませんでした。

「こんな世論はなにか間違っている」。そう思いつつも、何が間違っているのかを明確に僕は言うことが出来ませんでした。


中国の態度は正しいというのか。日本政府の対応は正しいというのか。船長の釈放に問題がなかったと言えるのか。

そう切り替えされたとき、何も言えない。僕はそれが分かっていたので、ただただあのニュースについては、見て見ぬふりを続けてきました。

ひとつだけ言うことができたのは、中国という大きな主語を使うとき、その主語に何億人という民衆が含まれていることに、自覚的でない人が多すぎるということ。

けれど、その程度の指摘では、ただの言語ゲーム。この世論に反論の文章をつづるだけの根拠にはならないと分かっていました。

そんななか先日、内田樹さんがこんな記事を書いておられるのを読みました。

内田樹の研究室: 外交について

この記事を読んで、僕の胸のつかえが、勢い良く押し流されていくのを感じました。

足りなかったのは、これだ。

内田さんが示したこのエントリの深さは、何よりもその「多角性」にあると僕は思います。

中国の為政者の立場、領土的トラウマを抱える中国共産党内の保守派の存在、外交上の失点が比較的重大な失点にならない日本政府の為政者、中国が抱える領土問題の精神的外傷の深さについて過小評価すべきではない私たち日本国民、これらの立場と心情を踏まえた上でこの記事は書かれています。

これからの僕たちの世論に必要なのは、この「多角性」なのではないか。僕はそのように思いました。複数の角度から、複数の視点から、ものごとをとらえられる力です。

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さて、同性愛やトランスジェンダーの人権が語られる場所では、ひんぱんに「多様性」という言葉が使われます。「世の中には多く様々な人がいるのだ」ということを示します。

そこからさらにまた一歩踏み込んで、「世の中には多く、様々な視点があるのだ」から「多く、様々な視点からものごとを考える」ということができるようになれば、世の中にあふれる言葉はもっと豊かなものになるのではないのかなと思います。

ノンケの視点から、女性の視点から、金持ちの視点から、老人の視点から――

でもまあ、複数の角度からものごとをとらえるには、訓練が必要かも。