2010年10月5日火曜日

偽善なんかくそったれ

偽善。

僕は偽善ということばが、あまり好きではありません。有り体に言って、きらいです。

自分の中に、ひとに優しくしよう、ひとのために何かをしようという気持ちが沸き起こったとき。もしくは、ひとの行いに感動したり、何かのできごとや物語に涙をこぼしたりしたとき。


いつもではないのだけれど、そういったとき、たまに脳の奥底から、びゅうんと飛んでくるような声。遠くから握りこぶし大の石っころを、おもいっきりぶつけられるような、そんな感じ。

「そんな優しい気持ちを抱く自分に酔っているだけだろう」
「人を哀れんで優越感に浸っているんだろう」
「誰かに自分が評価されたいだけだろう」

「偽善だ!!!」

この声は、正直なところ、間違っているとは言い切れません。

僕のなかには当然、自己顕示欲だって、優越感だって、あります。自分のことだって、できれば優しい人間だって信じていたい。

僕は、この声が「他人の声で」聞こえていた時期があります。今でもそんなときが、たまに、あります。

特定の誰かというわけではないのですが、とにかく「他人の声」。世間の誰かの声。僕を品定めしようと、舌舐めずりして、僕がぼろをだすのを今か今かと待ち受けているような、そんな「誰か」の声。

けれど、今では、それを脳の奥で叫んでいるのが、他の誰でもない「自分」だということに気づいています。茂みの奥から、後ろを向いた瞬間を見計らって、石を投げ飛ばそうとしているのは、他でもなく自分自身。

もちろん世の中には、本当に他人に対して悪意をためこんで、罵詈雑言をあびせかけるような人がいます。それは事実です。

しかし、そんな人が、僕の一挙手一投足をいつまでも凝視して、ずうっと観察しているなんてことは、そうそうありえない。ましてや、やさしい行いややさしいふるまいをするとき、そのほころびをさがそうと、そんな舌なめずりをして待ち受けているひとなんか、いやしない。

だから、「偽善だ!」の石をなげるのは自分自身。

でも、自分自身だと分かったところで、それがぶつかってくるのは不愉快なものです。というか、むしろ自分自身だからこそ、「何投げてんだよッ! バカ!」という気分になります。

なぜ投げてしまうのかは自分自身でもわかりません。たまに自分自身に力強くぶつけてしまって、心がなえることがあります。

ついさっきも、書店で立ち読みしたとある絵本に、思わずため息がでそうなくらい、感動にうちふるえた直後のこと。

「そんなんで感動してんのなんか、ただの偽善だな。感動してる自分によいたいだけじゃないか。ケッ」っていう「偽善の石」が飛んできて、「せっかく感動に浸ってたのに……」とガッカリ。

だから「偽善」がきらい。偽善なんか、くそったれです。