2011年5月26日木曜日

僕が信じる僕を信じる

中田ヤスタカが大好きです。常日頃から言っていることですが、繰り返し大好きです。音楽的にも最高に大好きなのですが、表現者としての姿勢も含めて、とても大好きなのです。


音楽には思想が現れる。僕はそう考えています。似たような種類の音を使っていても、似たようなラインの音楽でも、思想が違えば、たぶんそれは違う音楽だと、僕は思います。エレクトロハウスやテクノポップと呼ばれるジャンルの音楽を聞いていても、中田ヤスタカには中田ヤスタカの音楽がある、と僕は感じます。

思えば、中田ヤスタカに限らず、僕が好きになる表現者には傾向があります。

それは「自分が信じる自分を信じる」ということを大事にしているということ。自分が好きなものをつくる、自分が作りたいものをつくるということに、原点を置いているということ。

主語を決して「僕」「私」「俺」といった、一人称からずらさないこと。

自分と他人との違いを認め、肯定する。他者と共同でなにかをするときも、お互いにそうしようと思うことについてだけ、協力しあうこと。

それは、その結果、自分に返ってきたものが何であっても、受け止められる力。

僕はこう考えます。自分が自分の決断で好きなことをしてはじめて、納得のいく人生を送ることが出来ると。そして、それは決して自己中なんかじゃない。決断を基本誰かに委ねないということ。

本質的には、誰かに委ねるということもまた自分の決断だ。そこには信じる力が必要だと、僕は思う。信じるとは、相手から何が返ってきても構わない、という姿勢だ。

委ねた結果を受けとめられない、それは、受け止められない人の弱さだと僕は思います。

弱いことは、それ自体が悪いことではないと思います。

けれど、弱いのであればなおさら、自分が好きなことを、自分が納得出来る生きかたを、さがすこと。他者への不満は、自分を苦しめる。不満の力で、何かを買えないのなら、自分の好きなことのために『戦略的に「不満」をもつ』ことだ。

不満は、クレームは、手段だ。手段にもならない不満は、何も産まない。

世の中は自分に対してうまくなんかできていないけれど、それを変える力は、自分を自分で制御するということだ。「受け止める」か「変えていく」か。どちらの決断も、自分の気持ちに正直にあらねばいけないと思う。

中田ヤスタカの他に、僕が好きな表現者に「清涼院流水」という作家がいます。

このひとは賛否両論の作家で、最近の僕は、正直、この人の作品を100%おもしろがることは出来ていません。それでも、なんだかんだいいながら、この人の作品を読みたいと思うのは、この人が、自分の考えで、自分の気に入ったアイデアで、作品を作っているということがわかるからです。

面白くない作品のように思えて、ときどき、「あっ、違う。この人はこれを書きたくて書いたのだ」ということが不意に分かるような作品なのです。

最新作がその時点での最高傑作。気分はそのときどきで変わるし、死など以外の変化は肯定していいのだし、だから僕も、そんな彼らの最新作がいつも大好きです。

表現者は、他者の好意や感情の動きを求める存在だと思います。けれど、そこに辿り着く前に、最低限、自分の好意や、自分の感情に従っていること。

他者を主語にするときも、他者を主語にする自分の存在を忘れるのはずるいことだ。忘れがちでも、思い出すことだ。まず、自分が自分のために何をしたのかを。

自分のために楽しいことも出来ずに、ルールや規範や常識や空気にしたがって、そこに意味はないはずだ。もっと自分のために、ひとは真剣になっていい。

自分に生まれる好意や感情が、たとえ他者の求めるものと違っても、それでも踏み切ってそこに自分の作品や自分の人生をつくれる。そこをゆずらないスタートラインにする。

僕はそういう姿勢がとても好きです。僕もそうありたいと思います。

ま、世の中には「違わない」ことを愛する人もいるらしいけど、それって「違う」の基準すらそれぞれ「違う」ってことを見ないふりしたずるさだなと思います。

このブログも、僕の人生のための手段です。

浜崎あゆみが出した17枚目のシングル「SURREAL」という曲が僕はとても好きで、それがまさにそういう歌詞の曲になっています。