2011年6月23日木曜日

否定に否定を重ねてもそれは肯定

何かを批判するということ、何かに反対するということ。

それは実に、こっけいなふるまいだと僕は思うのです。こっけいだから悪いというのではありません。ただ、言葉と結果を頻繁に取りちがえる、そういう振る舞いだと、僕は思います。

どういうことか?

例えば昨今、AKB48というアイドルグループがあります。僕はこのアイドルグループに強く愛着を持っているわけではありません。けれど、否定しようというわけではまったくありません。

友だちや家族と話題を共有することも、まったく不快には感じていません。グループのメンバーも名前をなんども聴いているうちに、覚えてきました。僕はお金を落とすことはしないけれど、それでもCDを買う人は買えばよいし、彼女たちが芸能界でつよい影響力を持ちたければ持てばいいと思っています。観ていて楽しいときや気楽なときは観るし、他に興味のあるものがあるときは、そっちに興味を示すだけです。

僕はいま、AKB48のことを強く否定しませんでした。けれど、たとえ強く否定したとしても、強く肯定したとしても、どちらにせよ、ここでAKB48の話題を出すことが、AKB48を少なからず肯定してしまう、そういう結果につながると感じています。

AKB48に好意を持っているというファンが多数いるという状況の中では、肯定する言葉も、否定する言葉も、人々の関心をAKB48に向けてしまうという点で、AKB48の影響力に寄与し、その影響力を拡大する手助けにならざるを得ない、ということです。

言葉はそこに響いた時点で、関心の加速という側面を否定出来ないのです。

たとえば、「政局ばかりをとりあげるマスメディア」を批判する言葉も同じです。

そこに批判の言葉が語られたとき、「批判すべき状況」そのものを「話題に取り上げるべきこと」として肯定する力がそこに働きます。反感も異論も、そこに関心を生むという点で「肯定の要素」を完全に取り除くことはできません。

それは言葉というものの性質であって、人の意思とはまったく別のものです。

その性質を、実は根底では理解していながら、批判の言葉を手段として選んでしまうこと、そのことはまったく自然なことだとも思います。

否定に否定を重ねても、それは肯定。意図しなくとも、結末が肯定なのです。

「あるテーマ」に対して、「まったく完全に」、否定をささげたいのであれば、本当にできることはただひとつ。

それは「別のことを提示すること」です。

「あるテーマ」よりも強く関心をひくことができ、「あるテーマ」よりも重要に感じられ、「あるテーマ」より上位に思われる関心ごとをそこに提示することです。

「あるテーマ」が巨大に思えれば思えるほど、これは難解なしごとです。多数を牽引する空気や趨勢や流れのなかで、その視線を変える「別の力」をもつ別のことに力をそそぐこと。

僕が考えるに、この技をつかえるのは、大自然か芸術家か犯罪者くらいのものです。