2011年6月28日火曜日

中田ヤスタカの音の世界、その共有性と支配性

注意:今日の記事はまたcapsuleファンの熱弁です。勝手な持論で熱く語るので、苦笑いしながら読んでください。

capsuleの音楽は、とても現代的に、「使う音」と「使わない音」を分けていると感じる時があります。

彼が使う音は、複数の、同時代の、文化的に同期するリスナーとミュージックメーカーとの間で「共有されうる音」として選ばれていると感じるのです。

彼は市販の音楽制作ソフトを使い、さらにサンプリング素材を用い、音楽を制作しています。そこに生まれるサウンドは、予定された音であり、計画された音であり、複数の組み合わせのなかに確実に存在し、ある意味で制限され、発見されうる音です。

彼が、彼自身の設定する範囲の中で、共有されない音を使うことはおそらくないだろうと僕は考えています。彼はいつでも手の届くところにある音を使うことで、自分の音楽を完璧にコントロールしているからです。

アナログで、アコースティックな音作りをする場合、その音質のディテールはあざやかにちりぢりに有機的に刻み込まれますが、そこには操作不可能なものが生まれるでしょう。彼の音楽制作において、そういう複雑な音響の操作可能性の低さは、むしろ邪魔なのだと思うのです。

一音でも意図にそぐわない音が発生すれば、それをそぎ落とすか、変化させる。

capsuleのこしじまとしこの声は、そういう意味で、中田ヤスタカにとって、もっともコントローラブルで意志をつたえやすいヴォーカルの音として、なくてはならない存在なのだと思います。

capsuleの音楽は支配的で、ゆえに、使われた音の中に、意志が立ち現れます。

支配的なヤスタ観音

capsuleは意図的に封じ込められた音楽であり、その姿はまさに「カプセル」そのものです。それが支配的な立場から「処方」されるもののようであることも、実に示唆的です。

初期の傑作 "music controller"


「使わない」音は、capsuleのルールの中で、おそらく「使えない」ものでもあります。

かつてエレクトロは、というよりも電子音楽は、「もたない音楽」のさきがけであったと僕は考えています。直線的で数値的で、幾何学的な音響でつくられる音楽は、音楽機材の技術のうえにのみなりたつものであるがゆえに、ある種有限であるかのように縛られるのです。

あえて「音数を減らし」シンプルさを体現しようとするミニマリズムは、そういう有限性をつきつめていったところに出現した芸術潮流ですが、capsuleの場合はそれとはことなります。

capsuleの設定する有限性は、操作可能性のうえに成り立つものである以上、その可能性が拡大するとき、新たな地平を獲得する性質を持っています。

さらにcapsuleが設定する有限性は、共有性を軸に拡大するように思います。

中田ヤスタカが育った時代は、コンピュータといくつかの電子音楽の初期が共有された時代であり、中田ヤスタカが電子音を選ぶとき、そこには音の記憶の共有性が重要なポイントになっていると僕は考えています。

共有性の時代。豊かさと複雑さが同一であった時代から、豊かさの象徴が幾何的な洗練さである時代を経由してうまれたその時代を、capsuleは生きているのではないかと僕は思います。

モノを多くもち、複雑で細密で、有機的であることが豊かさの象徴である価値観。そういう価値観の文化圏はもともと主にアジア的で、それは細密な文様やデザインを持つ服飾の文化からも感じ取ることが出来ます。

そこに西洋からシンプルでそぎおとされた洗練さが到来し、ユニクロやMUJI、IKEA、Appleなどに代表される「シンプルであることの美学」、そういう価値観が文化的に輸入されてきました。

(ちなみにこれ、西洋の文化圏ではおそらく一部逆転しているのだろうと思います。エスニック、オリエンタル、有機的にからみあうことの文化が、シンプルの文化に対しておとずれているという部分があるのだろうと思う。)

モノを多く持つ、モノを少なく持つ、その文化を経由して。

そうしていま訪れているのは、「多くを共有して少なく持つ」という「シェア」の文化です。そこには、所有せずにより多くを共有するという価値観があります。

カプセルは、その「所有と共有」という概念が持つ「内と外」という性質を、その時代的な性質を、表現している音楽だと僕は考えるのです。

カプセルの内側でつくった音楽を、とじこめ、複製し、多くに「処方」「共有」が実現する。共有できるものを所有するものの中からつくりだすのが、capsuleの音楽性だと、僕は考えています。

ゆえに、それを正確に分けるためにこそ、中田ヤスタカ自身は、コントローラブルな、所有した音源から、音楽を作っているのではないでしょうか。