2011年7月9日土曜日

大後悔時代の僕

他の人に言わせればどうなのかは、別問題。

けれど、僕に言わせれば、僕の人生はかなり失敗してきた。それで、後悔しているのです。

僕の資質が、このステップを踏まなければならない程度のものだったということなのかもしれないけれど、もっとうまくやれたのではなかったのかと、後悔しているのです。

世の中についてはいろいろとどうにもならないように出来ているけれど、僕の人生は僕が決めてきたものだから、やっぱり後悔はあるのです。

僕は十歳のころの夢を未だに叶えていない。

なぜこんなことを書き始めたのかというと、ふと、考えてみたからなのです。

十歳の僕が今の自分を見たら、どう思うだろう。幻滅するだろうか。

たぶん、すると思う。

けれど、そこで終わりじゃないような気がする。

十余年で、お前は何を間違えたのか、何をしてこなかったのか、何が足りなかったのか、そう聞いてくるんだろうと、思うのです。そして、どうするんだろう。大事なのはなんなんだろう。

やりなおすということに決まっている。

たぶん、多くの日本人がそうだったはずのように、僕は大震災をきっかけにいろいろなことを考えた。

僕が考えさせられたのは、大震災そのものというよりも、大震災をきっかけに見えてきた「僕が知っている世界」と「僕が知っていない世界」の境目みたいなもののことだった。

それがみえたのは「ひとりのひとが捉えている世界は、この広い世界のたった一部でしかない」という単純な事実を、この大震災を機に、なんども突きつけられたような気がしたからでした。

僕は震災をきっかけに、むしろ、もう一度、つよい希望を持って生きるようになった気がするのです。

多くの死や悲しみをうんだ大災害で、まるで無被害だった僕が、のうのうと希望を獲得するなんて、納得がいかないかもしれないけれど。

でも。

僕は、自分の知っている場所だけが世界なんじゃないって、そう考えるようになったのです。

もちろん僕は多様性という言葉を知っているから、人と自分が違う場所で生きていることを知ってはいたのですが、僕が今回得た考え方は、それとはなにか違う感覚です。

夢を叶えた二十四歳が、平行世界にはいるのかもしれない――そういう、考え。つまり、僕にはそこへたどり着く手段があったはずで、それはいまからでも検証可能だってこと。

自分が選ばなかった世界が、今からでもみつけられるかもしれない、と。

うまくいえないけれど、人の生き方は選択の積み重ねで、それは。

それは、考えなおしたり振り返ったりして、それまでにない「一手」を打つことも可能なように、出来ているんじゃないだろうかと。

年を取ることは、打つ手を失っていくことだと、誰かがいっていたけれど、自分が「打ってこなかった手」がなにか、知ることは多分出来る。

世界は息苦しいほど狭くない、と思う。

「打って出なかった世界をみつけたい」と、最近の僕は、目指しております。