2011年7月14日木曜日

僕は脱原発に自分の意見を投じます

日々、この国では原子力発電について様々なことが語られています。

Twitterのタイムラインや政治や経済関連のブログを読んでいると、これでもかというほど侃々諤々の議論がかわされています。

原発推進派、原発維持派、ゆるやかな脱原発派、過激な脱原発派、そのほか様々な立場にたって、多くのひとが原発について語っている。意見を競わせている。

議論に熱を上げて興奮しているひとも多くいるとおもうのです。

が、それはそれでいいとして、そろそろ僕は疲れてきてしまっているのが本音です。みんなそれぞれそろそろ意見が固まっていて、もう動かす気がないというひとが多いんじゃないでしょうか。

となると、議論の目的は、かわっています。

真実の状況の理解ではなくて、どの言い分が結末を奪えるか、という話にもうなってしまっている。

そこで起きている議論はとてもみにくい。

原子力の理解だけではなく、それに付随する経済や政治的な動きや影響まで有機的に理解して説明しなければ、議論のステージで目的を果たすことができない状況です。

僕は脱原発派で、菅首相を支持している人間です。

けれど、いまこの意見を「それ以外の意見を認めない、お前らは間違っている」という態度で議論の俎上にもってくるほどのスタミナは持っていません。

論点多すぎ。ぜんぶ把握して論じようとしたらスタミナと知性が僕では足りません。

でも、それでも、僕はこの複雑な多くの論点を考慮して、結末がえらばれるべきだと考えています。

少なくとも、議論を単純化して、両手で数えられるような理由の数で、相手の意見を否定できる、そういう問題ではないと思っています。

ただ、その難題に、自身の利益や欲望と無縁の場所で、まっとうに立ち向かって結論を出したのだろう、と僕は菅首相を評価しています。

以上だけが僕の意見です。

僕の意見は何も説明していない、何の理由も理論もここにはない、と思われるかもしれません。それでいいです。もう意見の正しさを証明する論争をつづける段階ではないからです。

たとえば「あなた」と意見が違っても、もう、ほとんど意見のすり合わせをする意味のある段階ではないからです。反論に反論を重ねて議論ゲームに興じている段階ではないからです。

意見がすりあわさっていないことをひとつひとつあげつらっていけるようなシンプルで論点の少ない問題ではないからです。

各人がいま溢れている必要な情報を読み込んで、各人のなかで、あるいは親しい友人と真摯な情報の交換をしたうえで、結論を、それぞれの立場の中で出すこと。専門家ならば、自分の専門に忠実に答えを出すこと。

それが、意味のある態度だと僕は考えています。

そしてそれを表明するとき、政治的経済的科学的理論的社会的要因をすべてふまえて、わざわざ市民が対立する意見の相手に、ことこまかに説明しなければならない意味など、僕はないと思います。

説明がほしいならば、脱原発の専門的な論理は、多くの立場で語られている。それを読めばいい。

検索すれば見つかる反論を繰り返す必要があると、僕は思いません。

市民がそれをふまえていないことなど、専門家でもなければ、何の落ち度でもない。

たとえば子どもを思う母親が子どもの健康や将来のことに関する意見にしか詳しく反対の理由をいえないこと、そんなことはまったくおかしくない。

自分の立場で、自分の専門的立場だけにまっとうに、真摯に考えたことを言えばいい。反対のための論点を集めてきて競おうするのは、もう違う。反駁できる論敵を見つけてきて自分の正しさを打ちたてようとするのは、まるで違う。

いま意味があるのは、自分が把握した論点の中で、いまある意見にちゃんと自分の一票を入れることだ。「あなた」は「あなた」の一意見を持っていて、それでいい。

そう思うのです。

もちろん、僕と戦う必要はない。

たぶん多くのひとが、僕と意見を戦わせる必要なんて皆無だ。

本当の相手は、もっと大きい。

何十万分の一とかの意見でしかないことなど、しかたがない。

それでもその意見をはっきり出せるところに出しておくことだけだ。大事なのはそういう事なんじゃないか?

八十四万人いる佐賀県民の一人の二十四歳の僕は、そう考えています。