2013年5月26日日曜日

ロシア少女4人組"Powder"がヤバい! 絶対日本でデビューするべき。

日本好きの外国人がYouTubeで「踊ってみた」や「歌ってみた」のようなファンビデオをアップロードすることは、最近ではまったく珍しいことではありません。

その中にはアマチュアながらファンを獲得する人たちもいるし、僕にも何人か好きな「歌い手」や「踊り手」がいます。特にBerryz工房をはじめとしたハロープロジェクトの人気が高いタイなどでは、ハロープロジェクトの「踊ってみた」がすごく盛んで、僕も彼ら彼女らのファンビデオをよく見ます。

今回紹介したいのは、実際にはそういうファンビデオのひとつに過ぎないYouTube動画です。しかし、この動画は、ちょっともうファンビデオとかいうレベルじゃないのです。

彼女たちの個性は、すでにアーティストだと思います。

ロシア少女四人組のガールズバンド「Powder」。

メンバーはコーチャ、ラーシャ、ゲーリャ、ベラの4人。

メンバーは13歳から17歳までの日本が大好きな女の子たち。日本語をまだ勉強している最中だそうです。いつか日本でライブがしたいとも考えているそうです。

YouTubeのアップロード説明文やYoutubeへのコメントはすべて日本語で書かれています。

彼女たちはまだ日本語が書けないそうで、すべて彼女たちの日本語が得意な友人が翻訳してくれているのだそうです。もし彼女たちにこのブログのメッセージが届くなら、その友人が翻訳して届けてくれると嬉しいのだけれど。大好きです。

これまでに、彼女たちは、

「ブルーバード/いきものがかり」
「ファッションモンスター/きゃりーぱみゅぱみゅ」
「真っ赤な太陽/美空ひばり」

のカバー3曲と、

ロシア語のオリジナル曲「Loneliness」

をアップロードしています。

カバーはどれもアレンジが素晴らしくて、原曲の良さを壊さないまま、彼女たちの歌声と演奏のオリジナリティが光っていてる、素晴らしい作品です。そしてオリジナル曲もロシア語の発音が、日本語にはない美しさを放っていて、非常に魅力的。

本当にアマチュアバンドなんでしょうか? もしまだどのレコード会社も声をかけていないなら、早い者勝ちだと思います。

個人的にはオリジナル楽曲を日本語で歌って欲しいです。彼女たちがまだパーフェクトでない発音で日本語を歌っているのがすごく魅力的なので。









どれもこれもかなりクールだと思いませんか?

ぜひ彼女たちの来日ライブを期待したいです。彼女たちが日本で活躍する日は遠くないように思えます。

2013年5月11日土曜日

遺伝子は諦めていないのか

つい先日カミングアウトしたばかりの友人から「いつごろそうだと気づいたんですか」と聞かれて「小学三年生のころだね」と答えたら「早いですね」と驚かれた。

このやりとりには、実はだいぶ慣れている。よく聞かれる質問だし、驚かれるまでがワンセットだ。

だいたい小学生の頃にゲイを自覚したという話をすると、早いほうなのだと言われる。実は僕がこの質問をされた時にはふたとおりの答え方があって、それは「小学三年生」と「小学五年生」だ。

どう答えるかは気分による。なぜふたつ答えがあるかというと、「男を好きだ」と気づいたのが小学三年生で、「それをゲイというのだ」と知ったのが小学五年生だったからだ。

僕は男が好きだということ自体には、実はそう悩まなかった。そのことを気持ち悪いことだと自己否定するようなことはあんまりなかったし、人に言えないことだとは思っていたけれど、そんなことよりも普段の生活では他にいろいろ悩んだり考えたりすることがいっぱいあった。

どちらかと言うと、「女の子を好きになれない」ことのほうが重大だった。僕の記憶に強烈に残っているのはコンビニにならぶエロ本だ。同級生が過剰に反応しているコンビニのエロ本コーナーに、あの淫らなおっぱいのイラストや写真に、僕は生理的な嫌悪感しか感じられなかった。

あるとき理科の授業だったか道徳の授業だったか、僕達の自分の生命が何十億年も前のバクテリアみたいなのから連綿とつながれて生まれたもので、僕につながる生命のたった一人でも欠けていたら僕は生まれなかったのだということを聞かされたとき、やたらと怖く感じたのを覚えている。

途方も無い数の精子のなかのたったひとつが卵子と結びついて産まれた奇跡が云々と説かれ、そんな奇跡の連鎖をここにいる自分がストップさせたりしたらそれって相当罪深いことなんじゃないかと思い悩んだのだ。

そんな僕なのに精子はちゃんとつくられる。マスターベーションを覚えてティッシュに精液を放ちながら、こいつらが目的を果たせる日は来るのだろうかと思った。いつかどれかを卵子にたどり着かせてあげなければ可哀想だろうか。そう思って女の子の穴の中に挿入する想像をしてみたけれど、想像するだけでも不快だった。

女の子に対する嫌悪感は長い間どうしても消えなかった。いや、女の子自体は決して嫌いではない。とても仲の良い女の子はいたし、アイドルや歌手といった女の子たちは輝いて見えた。それでも裸の女の子を好きになることは絶対に無理だと思った。

中学生の頃、図書館で養子縁組のことを知った。これなら女の子とセックスをしなくても済むのではないかと思った。結婚式の誓いのキスくらいならしよう。友だちみたいな関係で結婚してもいいという女の子が現れてくれれば、僕はその女の子となんとかやっていけるのではないかと思った。

今考えれば、相手の女の子に対してとんでもなく失礼でエゴだらけな発想なのだけれど、そのころの僕は本気でそんなことを四六時中考えたりしていたのだ。

せめてバイセクシャルというやつに生まれればよかったのに、と思った。それでも男のことを好きな気持ちがなくなればとは思わなかった。

それは男の子のことを本当に魅力的だと思っていて、それを否定する気になんてなれなかったからだと思う。それは今だってそうだ。

ただし今では、女の子だって本当に魅力的な生き物なんだということがわかる。ただ僕には性的な目線で彼女たちをみる力は今でも備わっていないけれど、それでも今ならそう思う。彼女たちはとてもかわいいし、美しいし、魅力的だと思う。

男友達の恋の話も、今では親身になって聞くことができる。女の子に恋する男の話を聞きながら、共感したり、応援する気持ちになったり。そして自分の恋の話もできる。

それが性的な気持ちであろうとなかろうと、人の魅力を感じられる力というのはとても大事なことなのだと思う。今ではそう思えるようになった。性的な魅力がわからなくても、男の子や女の子、かわいいひとはやっぱりかわいい。かっこいいひとはやっぱりかっこいい。美しい人は美しい。

ただそうやって女の子の魅力を自分なりに捉えることできるようになったとはいえ。

そろそろ僕の睾丸は精子をつくるの無駄なんじゃないだろうか。こんなにも僕の脳は自分がゲイであることを肯定できているのに、何十億年前からの遺伝子にはかなわないものなんだろうか。出すことができるのは気持ち良いけれども。

女性アイドルみながら楽しんでるけど、それは恋愛感情にはならないよって、遺伝子は気づかないものなんだね。それとも、この期に及んで諦めていないんだろうか。、

2013年4月25日木曜日

坂上秋成「惜日のアリス」は過去と現在と未来をつなぐ小説です

本書は、言葉について書かれた小説です。そして言葉が結ぶ絆、言葉が壊す絆について書かれた小説であり、「絆が生きている世界」に恋をしながら「絆が死んだ世界」を観測することとなった人々が、それでも時を超えてIFを乗り越え、もう一度挨拶からはじめる物語です。

僕たちは、いま、ゆるやかに繋がれた淡い絆の時代を生きています。

普段は言葉をかわさなくても、アカウントや携帯のメモリーや、あるいは個人の思い出などを通して、ゆるやかにつながっている友人知人が、誰しもいるのではないかと思います。

僕たちはそうした相手に対し、心のなかだけで、友情や愛情を想像して生きています。

現代には多様な生きかたがあり、僕たちの人生にはそれぞれ違うことが起こります。ライフステージもみんなそれぞれ異なりますし、格差も生まれますし、時間や経済、触れ合う物語やポップカルチャー、インターネット、そんな様々なものが人間関係を組み替えてゆきます。

そうして組み替えてゆかれるなかでも、時として僕たちには信じたい絆があります。

その絆は力を込めて引っ張ってみないと、頑丈なものなのかどうかはわかりません。引っ張るまでは、その絆が実際にどのような状態にあるのかはわかりません。しっかりと保たれている状態かもしれないし、あるいはもう死んでいるかもしれない。

このような状態は、シュレーディンガーの猫のようですね。エヴェレットの多世界解釈においては、「猫が生きている世界」「猫が死んだ世界」のふたつの世界が重なりあって存在し続けます。

僕たちそれぞれは「絆が生きている世界」「絆が死んだ世界」が重なりあった場所に生きています。

「惜日のアリス」で描かれるのは、そうした僕達の生きている現代です。ポップカルチャーが文脈を超えてクリックできて再生できて、見えない場所で人々が様々な影響を与えあい、ふと目を離した間にも、誰かの心が何かに刺激されてくるりと色を変えてしまっているような時代。多様な生き方が当たり前のものとしてそこにあり、ゆえにこそ起きてしまう問題もそこにあるのです。

そんな現代において、本書の登場人物たちは、言葉とそれぞれのやりかたで向き合いました。

算法寺道明は、自分の目指す言葉を産み出せない場所をやむをえず離れたけれど、自らがかつて手に入れた「言葉に満ち溢れた生活」を信じ続けました。

対して語り手のアキラは、「ずいぶんと優しい場所」にとどまるために自らの言葉を変えてゆきました。それは悪いことではありません。でも、そうやって生きるうちに、相手を信じるために言葉を使うようになりました。かつては、「おびえながらも、そう、正しく世界にぶつかっていこうという気概」があったのに。

最初に読んだとき、僕は算法寺に自分を重ねました。そしてアキラの「聖域」と自らの信じる「言葉に満ち溢れた生活」を重ねました。そうして算法寺が「聖域」に入れてもらえない物語に、精神的なダメージを受けてしまったのですが、何度も読み返すうちに、印象が変わりました。

算法寺は、確かに人に届く言葉をつくることのできる大人にはならなかったかもしれない。しかし、だからといって、無理して我慢して格好つけて大人になる必要はないのです。それよりも、そう、ボーナストラックのように、YouTubeのように、僕たちはいつだって過去にも未来にも接続できるのだから、ライラックを信じてもいいのだと思います。

偽物でも幻でも、遥か遠くの理想を夢見て走り続ければ、それを真実に変える力だって持てるかもしれない。僕だってこのブログをはじめたとき、そういえばこんなことを思ったのです。僕の言葉が未来の誰かに検索されることもあるかもしれないし、いま僕の言葉を読んだ誰かが未来の僕の大切な人かもしれないと。

僕が本書で好きなのは、実は16ページです。

夜の自転車は手の先が冷えます。痛覚が死んでしまいそうなほどに。ペダルをこぐ足元に血が集まってしまって、上半身は悲しい思いをしていると、感じることがある。映画館から十分も漕げば家についてしまう、短い時間。これまではプリンを買うかどうかとか、脇毛の処理を済ませてしまおうかとか、そうした、お気楽な思考ばかりを巡らせていたのだけれど、もったいないのではないかと思った。車道を走る際のわずかなスリルとか、高級車を追い抜かした時の爽快感とか、大きなトラックが真横を通過することの恐怖とか、次々と移り変わる風を纏った景色とか、一度きりの夜の色とか、すべてを、ほんのわずかな時間でも、生み出すための活力として、心に留めておこうと誓うのだった。

この少女は僕の中にもいる、と思うのです。

このイメージは過去だけど、大丈夫。あの場所から、今も僕を祝福してくれていると思います。過去に描いた夢の一部が、現在の自分に力を与える瞬間。この本を読んで、僕は何度悪夢を見ても、そのことすら楽しんで生きていけると思える自分に出会いました。卑屈になることはないぞ!

ところで四段落前に嘘をつきました。16ページ以外も全部好きです。すみずみまで余すところなく読みました。どのページも何度も読んでいます。僕はギャングや「風の歌を聴け」には気づけなかったけれど、47ページ3行目は舞城王太郎に違いないと思いました。あと、ミックスバーのメンツのネーミングは正直どうかと思ったところもあります。二丁目の住人に分隊長なんてあだ名はないよなあと。でもネットっぽいところが、逆にあの場所の移ろいを表していてそれはいいかなあとは思います。でもやっぱ分隊長はないです。でも分隊長好きですけど。あと「JJ」「GLAMOROUS」が「Numero TOKYO」「SPUR」になったのは確実に大正解というか、ナルナのイメージがバシッとこのセンテンスで決まっているので、すごく好きです。そういう、細かいところをもっともっと語りたいくらい、この小説が好きです。


坂上秋成「惜日のアリス」は、やっぱり素晴らしい小説です。

いま僕が世界で一番好きな本を聞かれたらこの本を挙げます。僕が先日書いた感想は(たぶん読まれると思っていたけど案の定)著者の坂上秋成さん本人に読んでいただけたようで、この感想も読まれるでしょうから、なんだか恥ずかしくもあるのですが。

本当に、かつてこんなに好きになった小説はありません。次回作を熱望します。

2013年4月17日水曜日

坂上秋成「惜日のアリス」は僕の精神を削りとるような小説でした

坂上秋成「惜日のアリス」について語ろうと思うのですが、まず僕は自分の境遇とこの小説との関係について語らなければなりません。

というかそれ抜きにして、僕はこの小説と向き合えません。

読み終わったそばから、心臓がまるでゼリーを食べるかのようにスプーンで次々と軽々と削り取られているような気分がします。これは良い小説を読んだ時の高揚なのか、それともひどく精神的なダメージを受けた時の消耗なのか。たぶんどちらもです。

この小説には僕の見たことのある景色や、感じたことのある出来事がいくつも登場しました。

ブログでははじめて告白しますが、僕は小説を書きます。

この作品の中には小説を書く語り部・アキラ(女性)と、詩を書く男・算法寺が登場します。アキラと算法寺は交際しますが、金や仕事という現実的な理由でふたりは感性や関係性を摩耗し、別れることとなります。算法寺は芸術を追うためにと、アキラのもとを離れます。

僕は311の震災が起きた直後、当時付き合っていた彼氏と別れ、東京を離れました。そのことを思い出します。僕は小説を書くためにあの居場所を離れたのか。それは違うけれど、僕が東京で精神を削られることに当時それ以上耐えられなかったのだということは間違いありません。そして東京を離れ、親しい人々のもとを離れ、僕は小説を片田舎で書いています。

アキラは算法寺とわかれた後、新宿二丁目に居場所を見つけます。ゲイ、レズビアン、女装、トランスジェンダー、ノンケ、バイセクシュアル、そのほか。バラバラな指向を持つ人々が集う新宿二丁目のミックスバー「アテンション」に、彼女は居場所を見つけるのです。

僕にとってかつて(そして、できれば今でもそこに戻れるのだと信じたい)居場所であったのも、そうしたミックスバーでした。店の名前はエフメゾといいます。かつて毎週水曜日にそこに通っていた僕にとっては、この作品の中に出てくるすべての描写のリアリティが、あまりにリアルすぎて、思い出をえぐりとるかのようでした。会話も、風景も、僕はどこか全部知っているようでした。

いま、エフメゾはありません。今では別のバーに名前を変えています。違う名前で、違う建物に店を構えた別の店。東京を離れた僕はいま九州に住んでいるので、僕はその別の名前のバーには行ったことがありません。新宿二丁目から離れてもう二年が経ちます。

別の名前になったそのバーには、僕の知っている空気と僕の知らない空気がどれくらいの割合で混じり合っているのかわかりません。知らない顔も知っている顔もそこにあるだろうと思います。でもこの小説を読んで思うのは、自分が算法寺になってしまったのではないかという恐怖です。

算法寺は十五年を経て、語り部の女性・アキラに再会します。しかしアキラには同性の恋人・ナルナとその娘・莉々花がいます。そしてアキラにはアテンションという居場所もあります。その聖域には、勝手な都合でアキラのもとを離れ、勝手な都合で帰ってきた算法寺の居場所はありません。

僕が東京を離れた時も、それはそれは随分勝手な都合でした。僕のことをとても大切にしてくれていた友人たちに、僕は唐突に別れを切り出し、当時付き合っていた彼氏に対してはわりとひどい別れ方をしたと思います。

算法寺と違うのは、当時の恋人とよりを戻したいとは思っていないところぐらいかもしれません。でも、友人には、いまでも友情を信じさせて欲しいと思っています。

ただ、当時、東京で精神と財布を削りながら仕事をしていくことは僕にはできなくて、いま僕は小説を書くことにしがみついた実家ぐらしをしています。いつか東京に戻るつもりで。

このことは初告白だけど、たぶん幾人かにはなんとなく察されていることです。

いつ戻ってくるのかを聞かれて、今の僕は答えられずにいて、そんな僕はいつまで東京の愛する人達にとって友達でいつづけられるだろう。もうとっくに僕は算法寺なのかもしれません。

僕のゲイの友人はそういえば塾の講師でした。アキラは塾の講師をしている。そんな細かい共通項までが僕の心に引っかかる。引っかかるところの多い小説だった。いや、というよりも、僕の中に恐ろしいほどの速度で入り込んでくるような小説でした。

極めつけは作者の坂上秋成さんが僕と同じ早稲田大学の卒業生で、しかも、たった二歳差だということ。彼が歳上で本当に良かった。ちっぽけでいじましい自我だとは思うけれど、歳下にこれを書かれたくはなかった。

僕にはこういうものは書けなかった。この作品の中に出てくるすべてのことを僕は知っていたような気がします。でも知っていても書けないのです。僕がたぶん算法寺だからなのだと思います。

ええと、自分語りばかりですみません。結局作品のことについては、あまり語れていません。

前置きに「それ抜きにして向き合えない」とか書きましたけれど、自分語りをしてもしても、どうやら向きあえてません。

この作品は本当は何についての小説だったんだろう。

知りたい。

ような。

知りたくないような。

ああ、心臓、ぜんぶこの小説に食べられてしまいそうです。

この作品はそれほど僕にとっては恐ろしい魔法のような、悪夢のような、小説でした。

読むのは面白かったようなしんどかったような、とにかく、ひどく落ち着かない気持ちでした。この小説は僕のために書かれたのではないかとすら思いました。

でもたぶん全然違いますよね。

僕がこうしたかたちで心をえぐられたのはたぶん変な偶然なんでしょう。坂上秋成さんが主宰するミニコミ誌の名前が「BLACK PAST」なのもひどい偶然なんでしょう。

この小説にはきっと違うテーマがあります。きっと世に出ている「惜日のアリス」には、僕が読んだのとは、違うことが書かれているんじゃないかと思います。たぶん。

僕が手にとった一冊だけ違う物語だったんじゃないでしょうか。

ふう。ブログに書いたことでようやくちょっと消化できたかもしれません。さて、誰かこの作品のもっと平均的な読み方を教えて下さい…。

2013年4月13日土曜日

【書評】「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」と、僕の巡礼の年

家に帰るまでが遠足という校長先生の名言は誰でも知っていると思いますが、売れて読まれて話題になって語られ批評されて議論されるまでが村上作品なのだという気がします。

日本文学ひとり勝ち、といっても過言ではない売れ行きですね。

前日に「海賊と呼ばれた男」で本屋大賞を受賞した百田尚樹さんや、前日にデビュー作「惜日のアリス」を上梓された坂上秋成さんが、こんな大作と発売日がバッティングしたことを嘆いておられましたが、あらすじすら公開されていない作品だというのに発売時点で50万部が発行されているそうです。

そう、発売の時点で、内容はまったく公開されていないのです。

本文一行目で分かる主人公の苗字の読みですら、手にとって読むまでは知らなかったという人がほとんどではないでしょうか。テレビなどでは「たざき」と正確に読まれていましたが、読むまで「たさき」だと思っていた人も多かったでしょう。

本来、小説の読書とはそういうものであるべきなのかもしれません。まったくの予備知識を排し、作品に対するなんの手がかりもないまっさらな状態で読まれてこそ、物語を十全に楽しめるものなのかもしれません。

とはいえしかし、現実には、何も見込まれていない本が手にとられるはずはありません。

どんな作品かも明かされていないまま、本作がこれほどまでに売れるのは、ひとえにこれまで数々の作品を世に問うてきた「村上春樹」の作品だからです。

そして、本作を挑むにあたって、みなが手がかりにするのは、やはりこれまでの村上作品の存在なのでしょう。実際に、そのように読まれて良いのだと思います。

しかし、ここでは、なるべくそうした過去作品に対する参照を行わないかたちでこの作品について書いていきたいと思います。

僕の生まれる前の年に、村上春樹は「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」で谷崎賞を受賞していました。僕が物心つく頃には、すでに村上春樹は大御所作家でした。

そんな僕がリアルタイムの発売を追えるようになったのは「海辺のカフカ」からでしたが、いつも、自分の理解してきていない文脈や歴史とひもづいているのがもどかしくてたまりませんでした。しかし、「多崎つくる」は違いました。自分の現実・現在とリンクするように作品を楽しむことが出来たのは本作がはじめてでした。

それゆえに、僕は本作が「はじめての村上春樹」であってもよいと思います。

本作は色彩を持たない多崎つくるが、思考を絶って知らずにいることを選択してきた「実際」に立ち向かう「巡礼の年」を描きます。

この「巡礼の年」はリストのピアノ曲集から採られた言葉で、作中に登場するのは曲集の中の一曲「ル・マル・デュ・ペイ」です。Wikipediaによれば、望郷の念を表現する陰鬱な音楽なのだそうです。(僕はまだ聴いていません)

普通に読めば、アオ、アカ、そしてクロに出会う旅のことを「巡礼」なのだと感じるだろうと思いますが、「巡礼の年(Years of Pilgrimage)」が複数形であることを考えれば、そうではないということがわかると思います。

では、「彼の巡礼の年」はいつからいつまでなのか。

僕の考えでは、絶交を告げられて以降、沙羅にプロポーズをすることを考えるまで。というか、本作の一行目から最終行までです。リストの「巡礼の年」は「巡礼の年報」とも訳されるそうですから、この一冊が「彼の巡礼の年」について記された年報なのではないかと思います。

本作の中では、つくるの向き合いかた次第で、知ることのできる結末が大きく変わるであろう出来事がいくつか描かれます。「実際はどうであるのか」について向き合うのか背を向けるのか、それが本作をつらぬくテーマであると思います。

親友たちは実際にはどうして彼を切り捨てたのか、完全な調和がとれていたと思っていた親友グループで実際には誰が誰に恋していたのか、灰田くんは実際にはつくるくんが寝てる間にフェラチオしちゃったのか――。

同性愛者である僕としては、本作で「実際にはどうであるのか」について向き合うべきかどうか検案されるテーマのひとつに「同性愛」がふくまれていたことに、非常に好感を感じました。

そして本作では「実際」に対する「かかわりかた」が示されます。

すなわち、「調べること」「訪ねること」「尋ねること」です。跳ぶか跳ばないか、そのどちらかです。そこで否定されるのは「考えること」です。「実際」はグーグルやフェイスブックで調べることができ、鉄道や飛行機で会いに行くことができ、それを知っている人がいれば真相を聞くことができるのです。

「どうだい、こいつはまったく論理的な話じゃないだろう?」と緑川は言った。
「とても興味深い話ですが、簡単には信じがたい話でもあります」と灰田青年は正直に言った。
「そこには論理的な説明がないから?」
「そのとおりです」
「実証のしようもないしな」
「実際に取引をしてみるしか、それが事実であるかどうか、実証のしようはない。そういうことですね?」
緑川は肯いた。「そのとおり。そういうことだ。実際に跳躍をしてみなければ、実証はできない。そして実際に跳躍してしまえば、もう実証する必要なんてなくなっちまう。そこには中間ってものはない。跳ぶか跳ばないか、そのどちらかだ」
「緑川さんは死ぬことが怖くないのですか?」
「死ぬこと自体は怖くない。本当だよ。たくさんのろくでもない、くだらない連中が死んでいくのをこれまで目にしてきた。あんなやつらにだって出来たことだ。俺に出来ないわけがあるまい」
「死の先にあるものについてはどうですか?」
「死後の世界、死後の生命。その手のことか?」
灰田は肯いた。
「それについては考えるまいと決めた」と緑川はのびた髭を掌でさすりながら言った。「考えても知りようのないことは、また知っても確かめようのないことは、考えるだけ無駄というものだ。そんなものは所詮、君の言う仮説のあぶなっかしい延長に過ぎない」

(91~92ページより引用)

ああ、これは震災のあとの文学だ。僕がそう感じたのはこの部分です。

想像だとか憶測だとかではないほんものの「実際」と僕らは常に地続きなのです。鉄道や飛行機、そして様々なネットワークで、「知り得ない実際」とも、僕らは常に地続きに住んでいるのです。

中学や高校のころの友だちのこと、あるいはかつてわだかまり等のあった何事かに対して、僕らはあれこれ想像するしかないと考えています。そうして頭のなかにしか存在しないものに対して、僕らは勝手に距離をはかるのです。しかし、「かかわらない」ことを選択したあとにも、「実際」は存在し続けるし、「かかわる」ことを選択することで、そこに「実際」が判明するのです。

想像するだけで確かめず『郷愁』にしてしまうのか、それともいつもは乗らない列車に乗りこんで、実際につながった場所をこの目にしてみるのか――。そう、僕たちは行ったことのない駅に行ける列車に乗らず、行ったことのある駅につく列車にばかり乗りがちです。

作中で「死」とされるのはそうした選択肢の先にある未知の出来事です。その選択肢の先の未知――「実際」は、「尋ねて」みなければわかりません。彼の巡礼が終わるのは、このときです。最終ページで彼は決断します。

彼女が自分を選ぶかどうか――彼は自分の意志でそれを尋ねにゆくのです。その結果、待っているのは「死」かもしれません。しかし「それはこれまでに幾度も起こりかけたこと(368ページ)」で、実際の結末は「彼一人で決められることではない(370ページ)」のです。

さまざまな人々の心と心の間があり、個人においては「与えるべきものがあり、受け取るべきものがある(370ページ)」――誰もが「実際」を動かす当事者であり、そして地続きなのです。

そして今の自分に差し出せるだけのものを、それが何であれ、そっくり差し出そう。深い森に迷い込んで、悪いこびとたちにつかまらないうちに。

(370ページより引用)

悪いこびと(リトル・ピープル)は、「郷愁」(に囚われた思い込み)の中に存在するのです。多崎つくるは巡礼を終え、列車に乗り込みました。


そうだ、僕にはこれがわかる――。そうだ。


この作品で、僕は思い出しました。

もやもやした自分をもてあました中学生のころ、インターネットで「ゲイ」を検索して、いっきに世界がひろがったときのことを。

恋してもなにもできない自分に向かい合うことが出来なかったとき、当時の住まいから新宿まで電車で三十分、新宿二丁目のゲイバーの扉を叩いた時のことを。

「心の問題(104ページ)」に気づいた、僕自身の「巡礼の年」のことを。

さあ、読んでいないあなたも、考えていないで、実際に読んでみるとよいですよ。

2013年2月14日木曜日

道重さゆみについてそろそろ語りだすべきときだ

サユミンランドールという言葉を聞いたことはあるでしょうか?

モーニング娘。の第8代目リーダー・道重さゆみがセルフプロデュースした自身の写真集、そして自身のアメーバブログの両方につけられたタイトルが「サユミンランドール」です。

道重さゆみは、きゃりーぱみゅぱみゅと対照的に語ることのできる「Kawaii」カルチャーの担い手になりうる、というのが僕の意見です。

それを象徴するのが、彼女がセルフプロデュースした「サユミンランドール」というフレーズです。


「極度にカワイイ」と自称する道重さゆみのキャラクターはバラエティ番組などでも人気です。しかし最近では、そういったバラエティ番組では見せない彼女の実際のキャラクターを知っている人も多いはず。

この前もどこかの番組で、いつものぶりっ子ナルシストキャラ全開で「自分より可愛い子が嫌い」なんて発言をしていましたが、むしろ道重さゆみが「可愛い女の子に目がない」ことくらいはファンの間では周知の事実。毒舌なナルシストぶりっ子キャラはあくまでテレビ向けです。

むしろ、気質的には気遣いの人なのです。

空気を読み、キャラクターを演じ、バラドルとしての活躍もモーニング娘。の知名度をあげるためだと言う。ラジオ番組やブログのような一人仕事ですら、周囲に合わせながら自分の色を安定させる、そんな性格が感じられることが度々です。

対して、きゃりーぱみゅぱみゅは「自分の気持ち」を着飾らない、着飾りたくないと表現するキャラクターです。

つけまつげをつけたり、ふりそでを着たりするのは、100パーセントのじぶんを表現するため。じぶんがセンスいいと思う服を着て、発するメッセージは「わがまま ドキドキ このままでいたい」。

そうしたきゃりーのメッセージには、暗黙に「現実は現実としてどうしようもない」という前提が隠されています。世界はどうあるかは重要ではないし変えようもない、そこでじぶんがどう楽しんで生きようとしていくのかが大事なのだ、というニュアンス。

それはプロデューサーである中田ヤスタカの哲学が反映された強者のメッセージであり、きゃりーANANで「今日も明日もバイト」と、現実を明るく歌ってみせるところに象徴されています。

しかし、きゃりーが象徴するといわれる原宿ガールに連なる青文字系女の子の系譜には、そうした現実をサヴァイブする女子の感性より、むしろ道重さゆみ的なロマンティシズムの感性こそが、もともと連綿とあったと思うのです。アイドル、少女漫画、ファンシーグッズなど、少女・乙女が焦がれたKawaiiの系譜です。

「周囲の視線」を受けとめて現実を憎んだり楽しんだりと「揺れ」ながら、そのうえで「ひそかに」、あるいは「思い切って」、自分が自分で可愛いと思う「ファンタジー」に身を寄せる、リアリティーと意識的に切り離されたロマンティシズム的「Kawaii」の発露。

ときに現実に困惑し、それでもときに現実を笑顔で受け止め、そうしたなかでも「ファンタジーとしてのステージ」でロマンティックに自分を好きに可愛くあろうとする――「ヨシ! 今日も可愛いゾ!」と鏡に向かうさゆ。

ファッション的にもドメスティックなものを愛して受け止め再発信するきゃりーに対し、道重さゆみが愛するMILKに代表されるロリータ・ファッションは、欧米への憧れと想像力、ロマンティシズムなどをエンジンにしたもので、この点でもさゆときゃりーは対照的です。

【可愛すぎる】MILKを着た道重さゆみ-NAVERまとめ
http://matome.naver.jp/odai/2136016158275372401

東京都出身で都会育ちのきゃりーに対し、龍ヶ崎桃子(下妻物語)と同じく地方出身のさゆ。小学生の頃まで母をフランス人だと信じていたというエピソードにもさゆらしさを感じずにはいられません。



と、ここまで語って、実はここからが本題なのです。

最近、道重さゆみのソロ楽曲やデュエット曲を三曲続けて、大久保薫が手がけているのですが、これらの楽曲が、また道重さゆみにものすごく合っているので是非紹介したいのです。

僕はこれぞ「サユミンランドール」だと思うのです。道重さゆみ的ロマンティシズムを絶妙に捉えた表現全般を、僕は何となくそう呼びたいと思っています。

特に「ラララのピピピ」。

どれも、日本の「Kawaii」カルチャーのロマンティシズム的な側面を担うのは、道重さゆみなのだと思わせる楽曲です。

ラララのピピピ(モーニング娘。アルバム『⑬カラフルキャラクター』収録曲)


好きだな君が(モーニング娘。アルバム『12,スマート』収録曲、譜久村聖とのデュエット)


哀愁ロマンティック(Help me収録曲、譜久村聖とのデュエット)


彼女こそ、「キミノヒトミニコイシテル」を歌った深田恭子の正当な後継者だと思います。音痴さを電子音で加工しまくるところも、作り物感が素晴らしく良いです。


しかし、モーニング娘。リーダーとしての道重さゆみにも魅力があるため、ソロで活躍して欲しいとも言い難いのが悩ましいところですね。

道重さん本人はモーニング娘。やハロー!プロジェクトをこよなく愛していて、現在のモーニング娘。を盛り立てていくことに目下の関心が集中しているようなので。

モーニング娘。としての道重さゆみだけでなく、ひとりのアーティスト・道重さゆみとしての活動ももっと増えてほしいなあと僕は思っているのですが。

2013年1月7日月曜日

マクドナルドは「3分間待ってやる」キャンペーンをするべき

普段は弁当男子なのですが、お弁当を持っていかなかったときによくマックに行きます。

職場の目と鼻の先に、マクドナルドとロッテリアがあります。ちなみに、少しだけマクドナルドのほうが近くにあります。なので、普段は近い方のマクドナルドを利用することのほうが多いです。

しかし今では、歩いてでもロッテリアに行こうかな、と思っています。

ロッテリアでエヴァQ福袋を買ったので、手元にロッテリアのクーポンがたくさんある――というのが最大の理由なのですが、やはりもう一つの理由があります。

「あの60秒キャンペーンはひどいよなあ」という思いです。

スマートデバイスとソーシャルネットが普及した時代というのはすごいもので、さっそく「60秒キャンペーン」の「結果」があちこちで報告されています。



雑に入れられて袋の中にキャベツやポテトが散乱、いびつに挟まれたサンドウィッチが崩れているバーガー。60秒に急かされるあまり、サービスの質が低下しているのです。

強調しておきたいのは、これは末端スタッフの責任ではなく、トップの責任、上層部の責任だということです。従業員教育をしっかりしろなんていう話でもありません。そもそも、こんなキャンペーンして現場を困らせるな、という話です。

「美味しい商品を開発して」売上を伸ばそうとするのなら分かります。しかし、「末端の従業員に負荷かけてサービスさせるキャンペーン」なんて……最悪です。

思い起こせば、カウンターメニューの撤廃のときにしてもそうです。なぜ、多くの人が望んでいないことをやろうとするのでしょう。

文字通りのマックジョブ(→Wikipedia参照)に従事するマクドナルドのクルーたちに、60秒などという時間の負荷をかけ、これ以上大変な思いをさせたい――だなんて、いったい誰が望んでいるのでしょう。

以下に素敵なツイートを紹介します。


ジブリセットを頼んだ人は、ジブリセットを頼んでいない人の後回しにされてもいいわけですね。後ろに並んでいる人に優先権を譲ると。回転率を落とすようなかたちにはなるのでしょうが、僕はそのぶん高いセットだとしても、そんなジブリセットを注文したいです。

まあ、ジブリがコラボに応じてくれるかは別として、こんなふうに「客がスタッフを気遣える権利」があってもいいのではないか、というほど、ファストフードサービス業のアルバイトスタッフたちはこき使われすぎていると思います。「そうさせている私たち消費者」の責任すら感じるほどです。

このキャンペーン、人によって感じ方は違うのかもしれませんが、頼む側に余計な罪悪感を抱かせる醜悪なキャンペーンであるとともに、「<お客様>という存在を経営側がどんなふうに捉えているのか」が浮き彫りになるようなキャンペーンでもあると思います。

マクドナルドの上層部は、僕たちマクドナルドの顧客のことを、

「60秒でつくってもらえないと満足できないモンスターカスタマー」だ、と捉えている。

――このキャンペーンってそういうことですよね?

マクドナルドの原田社長は、このキャンペーンに不快感を抱くすべての顧客を60秒で説得してみればいいと思います。

ちなみにロッテリアのエヴァQキャンペーンには素晴らしく満足でした。