2013年4月25日木曜日

坂上秋成「惜日のアリス」は過去と現在と未来をつなぐ小説です

本書は、言葉について書かれた小説です。そして言葉が結ぶ絆、言葉が壊す絆について書かれた小説であり、「絆が生きている世界」に恋をしながら「絆が死んだ世界」を観測することとなった人々が、それでも時を超えてIFを乗り越え、もう一度挨拶からはじめる物語です。

僕たちは、いま、ゆるやかに繋がれた淡い絆の時代を生きています。

普段は言葉をかわさなくても、アカウントや携帯のメモリーや、あるいは個人の思い出などを通して、ゆるやかにつながっている友人知人が、誰しもいるのではないかと思います。

僕たちはそうした相手に対し、心のなかだけで、友情や愛情を想像して生きています。

現代には多様な生きかたがあり、僕たちの人生にはそれぞれ違うことが起こります。ライフステージもみんなそれぞれ異なりますし、格差も生まれますし、時間や経済、触れ合う物語やポップカルチャー、インターネット、そんな様々なものが人間関係を組み替えてゆきます。

そうして組み替えてゆかれるなかでも、時として僕たちには信じたい絆があります。

その絆は力を込めて引っ張ってみないと、頑丈なものなのかどうかはわかりません。引っ張るまでは、その絆が実際にどのような状態にあるのかはわかりません。しっかりと保たれている状態かもしれないし、あるいはもう死んでいるかもしれない。

このような状態は、シュレーディンガーの猫のようですね。エヴェレットの多世界解釈においては、「猫が生きている世界」「猫が死んだ世界」のふたつの世界が重なりあって存在し続けます。

僕たちそれぞれは「絆が生きている世界」「絆が死んだ世界」が重なりあった場所に生きています。

「惜日のアリス」で描かれるのは、そうした僕達の生きている現代です。ポップカルチャーが文脈を超えてクリックできて再生できて、見えない場所で人々が様々な影響を与えあい、ふと目を離した間にも、誰かの心が何かに刺激されてくるりと色を変えてしまっているような時代。多様な生き方が当たり前のものとしてそこにあり、ゆえにこそ起きてしまう問題もそこにあるのです。

そんな現代において、本書の登場人物たちは、言葉とそれぞれのやりかたで向き合いました。

算法寺道明は、自分の目指す言葉を産み出せない場所をやむをえず離れたけれど、自らがかつて手に入れた「言葉に満ち溢れた生活」を信じ続けました。

対して語り手のアキラは、「ずいぶんと優しい場所」にとどまるために自らの言葉を変えてゆきました。それは悪いことではありません。でも、そうやって生きるうちに、相手を信じるために言葉を使うようになりました。かつては、「おびえながらも、そう、正しく世界にぶつかっていこうという気概」があったのに。

最初に読んだとき、僕は算法寺に自分を重ねました。そしてアキラの「聖域」と自らの信じる「言葉に満ち溢れた生活」を重ねました。そうして算法寺が「聖域」に入れてもらえない物語に、精神的なダメージを受けてしまったのですが、何度も読み返すうちに、印象が変わりました。

算法寺は、確かに人に届く言葉をつくることのできる大人にはならなかったかもしれない。しかし、だからといって、無理して我慢して格好つけて大人になる必要はないのです。それよりも、そう、ボーナストラックのように、YouTubeのように、僕たちはいつだって過去にも未来にも接続できるのだから、ライラックを信じてもいいのだと思います。

偽物でも幻でも、遥か遠くの理想を夢見て走り続ければ、それを真実に変える力だって持てるかもしれない。僕だってこのブログをはじめたとき、そういえばこんなことを思ったのです。僕の言葉が未来の誰かに検索されることもあるかもしれないし、いま僕の言葉を読んだ誰かが未来の僕の大切な人かもしれないと。

僕が本書で好きなのは、実は16ページです。

夜の自転車は手の先が冷えます。痛覚が死んでしまいそうなほどに。ペダルをこぐ足元に血が集まってしまって、上半身は悲しい思いをしていると、感じることがある。映画館から十分も漕げば家についてしまう、短い時間。これまではプリンを買うかどうかとか、脇毛の処理を済ませてしまおうかとか、そうした、お気楽な思考ばかりを巡らせていたのだけれど、もったいないのではないかと思った。車道を走る際のわずかなスリルとか、高級車を追い抜かした時の爽快感とか、大きなトラックが真横を通過することの恐怖とか、次々と移り変わる風を纏った景色とか、一度きりの夜の色とか、すべてを、ほんのわずかな時間でも、生み出すための活力として、心に留めておこうと誓うのだった。

この少女は僕の中にもいる、と思うのです。

このイメージは過去だけど、大丈夫。あの場所から、今も僕を祝福してくれていると思います。過去に描いた夢の一部が、現在の自分に力を与える瞬間。この本を読んで、僕は何度悪夢を見ても、そのことすら楽しんで生きていけると思える自分に出会いました。卑屈になることはないぞ!

ところで四段落前に嘘をつきました。16ページ以外も全部好きです。すみずみまで余すところなく読みました。どのページも何度も読んでいます。僕はギャングや「風の歌を聴け」には気づけなかったけれど、47ページ3行目は舞城王太郎に違いないと思いました。あと、ミックスバーのメンツのネーミングは正直どうかと思ったところもあります。二丁目の住人に分隊長なんてあだ名はないよなあと。でもネットっぽいところが、逆にあの場所の移ろいを表していてそれはいいかなあとは思います。でもやっぱ分隊長はないです。でも分隊長好きですけど。あと「JJ」「GLAMOROUS」が「Numero TOKYO」「SPUR」になったのは確実に大正解というか、ナルナのイメージがバシッとこのセンテンスで決まっているので、すごく好きです。そういう、細かいところをもっともっと語りたいくらい、この小説が好きです。


坂上秋成「惜日のアリス」は、やっぱり素晴らしい小説です。

いま僕が世界で一番好きな本を聞かれたらこの本を挙げます。僕が先日書いた感想は(たぶん読まれると思っていたけど案の定)著者の坂上秋成さん本人に読んでいただけたようで、この感想も読まれるでしょうから、なんだか恥ずかしくもあるのですが。

本当に、かつてこんなに好きになった小説はありません。次回作を熱望します。

2013年4月17日水曜日

坂上秋成「惜日のアリス」は僕の精神を削りとるような小説でした

坂上秋成「惜日のアリス」について語ろうと思うのですが、まず僕は自分の境遇とこの小説との関係について語らなければなりません。

というかそれ抜きにして、僕はこの小説と向き合えません。

読み終わったそばから、心臓がまるでゼリーを食べるかのようにスプーンで次々と軽々と削り取られているような気分がします。これは良い小説を読んだ時の高揚なのか、それともひどく精神的なダメージを受けた時の消耗なのか。たぶんどちらもです。

この小説には僕の見たことのある景色や、感じたことのある出来事がいくつも登場しました。

ブログでははじめて告白しますが、僕は小説を書きます。

この作品の中には小説を書く語り部・アキラ(女性)と、詩を書く男・算法寺が登場します。アキラと算法寺は交際しますが、金や仕事という現実的な理由でふたりは感性や関係性を摩耗し、別れることとなります。算法寺は芸術を追うためにと、アキラのもとを離れます。

僕は311の震災が起きた直後、当時付き合っていた彼氏と別れ、東京を離れました。そのことを思い出します。僕は小説を書くためにあの居場所を離れたのか。それは違うけれど、僕が東京で精神を削られることに当時それ以上耐えられなかったのだということは間違いありません。そして東京を離れ、親しい人々のもとを離れ、僕は小説を片田舎で書いています。

アキラは算法寺とわかれた後、新宿二丁目に居場所を見つけます。ゲイ、レズビアン、女装、トランスジェンダー、ノンケ、バイセクシュアル、そのほか。バラバラな指向を持つ人々が集う新宿二丁目のミックスバー「アテンション」に、彼女は居場所を見つけるのです。

僕にとってかつて(そして、できれば今でもそこに戻れるのだと信じたい)居場所であったのも、そうしたミックスバーでした。店の名前はエフメゾといいます。かつて毎週水曜日にそこに通っていた僕にとっては、この作品の中に出てくるすべての描写のリアリティが、あまりにリアルすぎて、思い出をえぐりとるかのようでした。会話も、風景も、僕はどこか全部知っているようでした。

いま、エフメゾはありません。今では別のバーに名前を変えています。違う名前で、違う建物に店を構えた別の店。東京を離れた僕はいま九州に住んでいるので、僕はその別の名前のバーには行ったことがありません。新宿二丁目から離れてもう二年が経ちます。

別の名前になったそのバーには、僕の知っている空気と僕の知らない空気がどれくらいの割合で混じり合っているのかわかりません。知らない顔も知っている顔もそこにあるだろうと思います。でもこの小説を読んで思うのは、自分が算法寺になってしまったのではないかという恐怖です。

算法寺は十五年を経て、語り部の女性・アキラに再会します。しかしアキラには同性の恋人・ナルナとその娘・莉々花がいます。そしてアキラにはアテンションという居場所もあります。その聖域には、勝手な都合でアキラのもとを離れ、勝手な都合で帰ってきた算法寺の居場所はありません。

僕が東京を離れた時も、それはそれは随分勝手な都合でした。僕のことをとても大切にしてくれていた友人たちに、僕は唐突に別れを切り出し、当時付き合っていた彼氏に対してはわりとひどい別れ方をしたと思います。

算法寺と違うのは、当時の恋人とよりを戻したいとは思っていないところぐらいかもしれません。でも、友人には、いまでも友情を信じさせて欲しいと思っています。

ただ、当時、東京で精神と財布を削りながら仕事をしていくことは僕にはできなくて、いま僕は小説を書くことにしがみついた実家ぐらしをしています。いつか東京に戻るつもりで。

このことは初告白だけど、たぶん幾人かにはなんとなく察されていることです。

いつ戻ってくるのかを聞かれて、今の僕は答えられずにいて、そんな僕はいつまで東京の愛する人達にとって友達でいつづけられるだろう。もうとっくに僕は算法寺なのかもしれません。

僕のゲイの友人はそういえば塾の講師でした。アキラは塾の講師をしている。そんな細かい共通項までが僕の心に引っかかる。引っかかるところの多い小説だった。いや、というよりも、僕の中に恐ろしいほどの速度で入り込んでくるような小説でした。

極めつけは作者の坂上秋成さんが僕と同じ早稲田大学の卒業生で、しかも、たった二歳差だということ。彼が歳上で本当に良かった。ちっぽけでいじましい自我だとは思うけれど、歳下にこれを書かれたくはなかった。

僕にはこういうものは書けなかった。この作品の中に出てくるすべてのことを僕は知っていたような気がします。でも知っていても書けないのです。僕がたぶん算法寺だからなのだと思います。

ええと、自分語りばかりですみません。結局作品のことについては、あまり語れていません。

前置きに「それ抜きにして向き合えない」とか書きましたけれど、自分語りをしてもしても、どうやら向きあえてません。

この作品は本当は何についての小説だったんだろう。

知りたい。

ような。

知りたくないような。

ああ、心臓、ぜんぶこの小説に食べられてしまいそうです。

この作品はそれほど僕にとっては恐ろしい魔法のような、悪夢のような、小説でした。

読むのは面白かったようなしんどかったような、とにかく、ひどく落ち着かない気持ちでした。この小説は僕のために書かれたのではないかとすら思いました。

でもたぶん全然違いますよね。

僕がこうしたかたちで心をえぐられたのはたぶん変な偶然なんでしょう。坂上秋成さんが主宰するミニコミ誌の名前が「BLACK PAST」なのもひどい偶然なんでしょう。

この小説にはきっと違うテーマがあります。きっと世に出ている「惜日のアリス」には、僕が読んだのとは、違うことが書かれているんじゃないかと思います。たぶん。

僕が手にとった一冊だけ違う物語だったんじゃないでしょうか。

ふう。ブログに書いたことでようやくちょっと消化できたかもしれません。さて、誰かこの作品のもっと平均的な読み方を教えて下さい…。

2013年4月13日土曜日

【書評】「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」と、僕の巡礼の年

家に帰るまでが遠足という校長先生の名言は誰でも知っていると思いますが、売れて読まれて話題になって語られ批評されて議論されるまでが村上作品なのだという気がします。

日本文学ひとり勝ち、といっても過言ではない売れ行きですね。

前日に「海賊と呼ばれた男」で本屋大賞を受賞した百田尚樹さんや、前日にデビュー作「惜日のアリス」を上梓された坂上秋成さんが、こんな大作と発売日がバッティングしたことを嘆いておられましたが、あらすじすら公開されていない作品だというのに発売時点で50万部が発行されているそうです。

そう、発売の時点で、内容はまったく公開されていないのです。

本文一行目で分かる主人公の苗字の読みですら、手にとって読むまでは知らなかったという人がほとんどではないでしょうか。テレビなどでは「たざき」と正確に読まれていましたが、読むまで「たさき」だと思っていた人も多かったでしょう。

本来、小説の読書とはそういうものであるべきなのかもしれません。まったくの予備知識を排し、作品に対するなんの手がかりもないまっさらな状態で読まれてこそ、物語を十全に楽しめるものなのかもしれません。

とはいえしかし、現実には、何も見込まれていない本が手にとられるはずはありません。

どんな作品かも明かされていないまま、本作がこれほどまでに売れるのは、ひとえにこれまで数々の作品を世に問うてきた「村上春樹」の作品だからです。

そして、本作を挑むにあたって、みなが手がかりにするのは、やはりこれまでの村上作品の存在なのでしょう。実際に、そのように読まれて良いのだと思います。

しかし、ここでは、なるべくそうした過去作品に対する参照を行わないかたちでこの作品について書いていきたいと思います。

僕の生まれる前の年に、村上春樹は「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」で谷崎賞を受賞していました。僕が物心つく頃には、すでに村上春樹は大御所作家でした。

そんな僕がリアルタイムの発売を追えるようになったのは「海辺のカフカ」からでしたが、いつも、自分の理解してきていない文脈や歴史とひもづいているのがもどかしくてたまりませんでした。しかし、「多崎つくる」は違いました。自分の現実・現在とリンクするように作品を楽しむことが出来たのは本作がはじめてでした。

それゆえに、僕は本作が「はじめての村上春樹」であってもよいと思います。

本作は色彩を持たない多崎つくるが、思考を絶って知らずにいることを選択してきた「実際」に立ち向かう「巡礼の年」を描きます。

この「巡礼の年」はリストのピアノ曲集から採られた言葉で、作中に登場するのは曲集の中の一曲「ル・マル・デュ・ペイ」です。Wikipediaによれば、望郷の念を表現する陰鬱な音楽なのだそうです。(僕はまだ聴いていません)

普通に読めば、アオ、アカ、そしてクロに出会う旅のことを「巡礼」なのだと感じるだろうと思いますが、「巡礼の年(Years of Pilgrimage)」が複数形であることを考えれば、そうではないということがわかると思います。

では、「彼の巡礼の年」はいつからいつまでなのか。

僕の考えでは、絶交を告げられて以降、沙羅にプロポーズをすることを考えるまで。というか、本作の一行目から最終行までです。リストの「巡礼の年」は「巡礼の年報」とも訳されるそうですから、この一冊が「彼の巡礼の年」について記された年報なのではないかと思います。

本作の中では、つくるの向き合いかた次第で、知ることのできる結末が大きく変わるであろう出来事がいくつか描かれます。「実際はどうであるのか」について向き合うのか背を向けるのか、それが本作をつらぬくテーマであると思います。

親友たちは実際にはどうして彼を切り捨てたのか、完全な調和がとれていたと思っていた親友グループで実際には誰が誰に恋していたのか、灰田くんは実際にはつくるくんが寝てる間にフェラチオしちゃったのか――。

同性愛者である僕としては、本作で「実際にはどうであるのか」について向き合うべきかどうか検案されるテーマのひとつに「同性愛」がふくまれていたことに、非常に好感を感じました。

そして本作では「実際」に対する「かかわりかた」が示されます。

すなわち、「調べること」「訪ねること」「尋ねること」です。跳ぶか跳ばないか、そのどちらかです。そこで否定されるのは「考えること」です。「実際」はグーグルやフェイスブックで調べることができ、鉄道や飛行機で会いに行くことができ、それを知っている人がいれば真相を聞くことができるのです。

「どうだい、こいつはまったく論理的な話じゃないだろう?」と緑川は言った。
「とても興味深い話ですが、簡単には信じがたい話でもあります」と灰田青年は正直に言った。
「そこには論理的な説明がないから?」
「そのとおりです」
「実証のしようもないしな」
「実際に取引をしてみるしか、それが事実であるかどうか、実証のしようはない。そういうことですね?」
緑川は肯いた。「そのとおり。そういうことだ。実際に跳躍をしてみなければ、実証はできない。そして実際に跳躍してしまえば、もう実証する必要なんてなくなっちまう。そこには中間ってものはない。跳ぶか跳ばないか、そのどちらかだ」
「緑川さんは死ぬことが怖くないのですか?」
「死ぬこと自体は怖くない。本当だよ。たくさんのろくでもない、くだらない連中が死んでいくのをこれまで目にしてきた。あんなやつらにだって出来たことだ。俺に出来ないわけがあるまい」
「死の先にあるものについてはどうですか?」
「死後の世界、死後の生命。その手のことか?」
灰田は肯いた。
「それについては考えるまいと決めた」と緑川はのびた髭を掌でさすりながら言った。「考えても知りようのないことは、また知っても確かめようのないことは、考えるだけ無駄というものだ。そんなものは所詮、君の言う仮説のあぶなっかしい延長に過ぎない」

(91~92ページより引用)

ああ、これは震災のあとの文学だ。僕がそう感じたのはこの部分です。

想像だとか憶測だとかではないほんものの「実際」と僕らは常に地続きなのです。鉄道や飛行機、そして様々なネットワークで、「知り得ない実際」とも、僕らは常に地続きに住んでいるのです。

中学や高校のころの友だちのこと、あるいはかつてわだかまり等のあった何事かに対して、僕らはあれこれ想像するしかないと考えています。そうして頭のなかにしか存在しないものに対して、僕らは勝手に距離をはかるのです。しかし、「かかわらない」ことを選択したあとにも、「実際」は存在し続けるし、「かかわる」ことを選択することで、そこに「実際」が判明するのです。

想像するだけで確かめず『郷愁』にしてしまうのか、それともいつもは乗らない列車に乗りこんで、実際につながった場所をこの目にしてみるのか――。そう、僕たちは行ったことのない駅に行ける列車に乗らず、行ったことのある駅につく列車にばかり乗りがちです。

作中で「死」とされるのはそうした選択肢の先にある未知の出来事です。その選択肢の先の未知――「実際」は、「尋ねて」みなければわかりません。彼の巡礼が終わるのは、このときです。最終ページで彼は決断します。

彼女が自分を選ぶかどうか――彼は自分の意志でそれを尋ねにゆくのです。その結果、待っているのは「死」かもしれません。しかし「それはこれまでに幾度も起こりかけたこと(368ページ)」で、実際の結末は「彼一人で決められることではない(370ページ)」のです。

さまざまな人々の心と心の間があり、個人においては「与えるべきものがあり、受け取るべきものがある(370ページ)」――誰もが「実際」を動かす当事者であり、そして地続きなのです。

そして今の自分に差し出せるだけのものを、それが何であれ、そっくり差し出そう。深い森に迷い込んで、悪いこびとたちにつかまらないうちに。

(370ページより引用)

悪いこびと(リトル・ピープル)は、「郷愁」(に囚われた思い込み)の中に存在するのです。多崎つくるは巡礼を終え、列車に乗り込みました。


そうだ、僕にはこれがわかる――。そうだ。


この作品で、僕は思い出しました。

もやもやした自分をもてあました中学生のころ、インターネットで「ゲイ」を検索して、いっきに世界がひろがったときのことを。

恋してもなにもできない自分に向かい合うことが出来なかったとき、当時の住まいから新宿まで電車で三十分、新宿二丁目のゲイバーの扉を叩いた時のことを。

「心の問題(104ページ)」に気づいた、僕自身の「巡礼の年」のことを。

さあ、読んでいないあなたも、考えていないで、実際に読んでみるとよいですよ。