2013年4月13日土曜日

【書評】「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」と、僕の巡礼の年

家に帰るまでが遠足という校長先生の名言は誰でも知っていると思いますが、売れて読まれて話題になって語られ批評されて議論されるまでが村上作品なのだという気がします。

日本文学ひとり勝ち、といっても過言ではない売れ行きですね。

前日に「海賊と呼ばれた男」で本屋大賞を受賞した百田尚樹さんや、前日にデビュー作「惜日のアリス」を上梓された坂上秋成さんが、こんな大作と発売日がバッティングしたことを嘆いておられましたが、あらすじすら公開されていない作品だというのに発売時点で50万部が発行されているそうです。

そう、発売の時点で、内容はまったく公開されていないのです。

本文一行目で分かる主人公の苗字の読みですら、手にとって読むまでは知らなかったという人がほとんどではないでしょうか。テレビなどでは「たざき」と正確に読まれていましたが、読むまで「たさき」だと思っていた人も多かったでしょう。

本来、小説の読書とはそういうものであるべきなのかもしれません。まったくの予備知識を排し、作品に対するなんの手がかりもないまっさらな状態で読まれてこそ、物語を十全に楽しめるものなのかもしれません。

とはいえしかし、現実には、何も見込まれていない本が手にとられるはずはありません。

どんな作品かも明かされていないまま、本作がこれほどまでに売れるのは、ひとえにこれまで数々の作品を世に問うてきた「村上春樹」の作品だからです。

そして、本作を挑むにあたって、みなが手がかりにするのは、やはりこれまでの村上作品の存在なのでしょう。実際に、そのように読まれて良いのだと思います。

しかし、ここでは、なるべくそうした過去作品に対する参照を行わないかたちでこの作品について書いていきたいと思います。

僕の生まれる前の年に、村上春樹は「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」で谷崎賞を受賞していました。僕が物心つく頃には、すでに村上春樹は大御所作家でした。

そんな僕がリアルタイムの発売を追えるようになったのは「海辺のカフカ」からでしたが、いつも、自分の理解してきていない文脈や歴史とひもづいているのがもどかしくてたまりませんでした。しかし、「多崎つくる」は違いました。自分の現実・現在とリンクするように作品を楽しむことが出来たのは本作がはじめてでした。

それゆえに、僕は本作が「はじめての村上春樹」であってもよいと思います。

本作は色彩を持たない多崎つくるが、思考を絶って知らずにいることを選択してきた「実際」に立ち向かう「巡礼の年」を描きます。

この「巡礼の年」はリストのピアノ曲集から採られた言葉で、作中に登場するのは曲集の中の一曲「ル・マル・デュ・ペイ」です。Wikipediaによれば、望郷の念を表現する陰鬱な音楽なのだそうです。(僕はまだ聴いていません)

普通に読めば、アオ、アカ、そしてクロに出会う旅のことを「巡礼」なのだと感じるだろうと思いますが、「巡礼の年(Years of Pilgrimage)」が複数形であることを考えれば、そうではないということがわかると思います。

では、「彼の巡礼の年」はいつからいつまでなのか。

僕の考えでは、絶交を告げられて以降、沙羅にプロポーズをすることを考えるまで。というか、本作の一行目から最終行までです。リストの「巡礼の年」は「巡礼の年報」とも訳されるそうですから、この一冊が「彼の巡礼の年」について記された年報なのではないかと思います。

本作の中では、つくるの向き合いかた次第で、知ることのできる結末が大きく変わるであろう出来事がいくつか描かれます。「実際はどうであるのか」について向き合うのか背を向けるのか、それが本作をつらぬくテーマであると思います。

親友たちは実際にはどうして彼を切り捨てたのか、完全な調和がとれていたと思っていた親友グループで実際には誰が誰に恋していたのか、灰田くんは実際にはつくるくんが寝てる間にフェラチオしちゃったのか――。

同性愛者である僕としては、本作で「実際にはどうであるのか」について向き合うべきかどうか検案されるテーマのひとつに「同性愛」がふくまれていたことに、非常に好感を感じました。

そして本作では「実際」に対する「かかわりかた」が示されます。

すなわち、「調べること」「訪ねること」「尋ねること」です。跳ぶか跳ばないか、そのどちらかです。そこで否定されるのは「考えること」です。「実際」はグーグルやフェイスブックで調べることができ、鉄道や飛行機で会いに行くことができ、それを知っている人がいれば真相を聞くことができるのです。

「どうだい、こいつはまったく論理的な話じゃないだろう?」と緑川は言った。
「とても興味深い話ですが、簡単には信じがたい話でもあります」と灰田青年は正直に言った。
「そこには論理的な説明がないから?」
「そのとおりです」
「実証のしようもないしな」
「実際に取引をしてみるしか、それが事実であるかどうか、実証のしようはない。そういうことですね?」
緑川は肯いた。「そのとおり。そういうことだ。実際に跳躍をしてみなければ、実証はできない。そして実際に跳躍してしまえば、もう実証する必要なんてなくなっちまう。そこには中間ってものはない。跳ぶか跳ばないか、そのどちらかだ」
「緑川さんは死ぬことが怖くないのですか?」
「死ぬこと自体は怖くない。本当だよ。たくさんのろくでもない、くだらない連中が死んでいくのをこれまで目にしてきた。あんなやつらにだって出来たことだ。俺に出来ないわけがあるまい」
「死の先にあるものについてはどうですか?」
「死後の世界、死後の生命。その手のことか?」
灰田は肯いた。
「それについては考えるまいと決めた」と緑川はのびた髭を掌でさすりながら言った。「考えても知りようのないことは、また知っても確かめようのないことは、考えるだけ無駄というものだ。そんなものは所詮、君の言う仮説のあぶなっかしい延長に過ぎない」

(91~92ページより引用)

ああ、これは震災のあとの文学だ。僕がそう感じたのはこの部分です。

想像だとか憶測だとかではないほんものの「実際」と僕らは常に地続きなのです。鉄道や飛行機、そして様々なネットワークで、「知り得ない実際」とも、僕らは常に地続きに住んでいるのです。

中学や高校のころの友だちのこと、あるいはかつてわだかまり等のあった何事かに対して、僕らはあれこれ想像するしかないと考えています。そうして頭のなかにしか存在しないものに対して、僕らは勝手に距離をはかるのです。しかし、「かかわらない」ことを選択したあとにも、「実際」は存在し続けるし、「かかわる」ことを選択することで、そこに「実際」が判明するのです。

想像するだけで確かめず『郷愁』にしてしまうのか、それともいつもは乗らない列車に乗りこんで、実際につながった場所をこの目にしてみるのか――。そう、僕たちは行ったことのない駅に行ける列車に乗らず、行ったことのある駅につく列車にばかり乗りがちです。

作中で「死」とされるのはそうした選択肢の先にある未知の出来事です。その選択肢の先の未知――「実際」は、「尋ねて」みなければわかりません。彼の巡礼が終わるのは、このときです。最終ページで彼は決断します。

彼女が自分を選ぶかどうか――彼は自分の意志でそれを尋ねにゆくのです。その結果、待っているのは「死」かもしれません。しかし「それはこれまでに幾度も起こりかけたこと(368ページ)」で、実際の結末は「彼一人で決められることではない(370ページ)」のです。

さまざまな人々の心と心の間があり、個人においては「与えるべきものがあり、受け取るべきものがある(370ページ)」――誰もが「実際」を動かす当事者であり、そして地続きなのです。

そして今の自分に差し出せるだけのものを、それが何であれ、そっくり差し出そう。深い森に迷い込んで、悪いこびとたちにつかまらないうちに。

(370ページより引用)

悪いこびと(リトル・ピープル)は、「郷愁」(に囚われた思い込み)の中に存在するのです。多崎つくるは巡礼を終え、列車に乗り込みました。


そうだ、僕にはこれがわかる――。そうだ。


この作品で、僕は思い出しました。

もやもやした自分をもてあました中学生のころ、インターネットで「ゲイ」を検索して、いっきに世界がひろがったときのことを。

恋してもなにもできない自分に向かい合うことが出来なかったとき、当時の住まいから新宿まで電車で三十分、新宿二丁目のゲイバーの扉を叩いた時のことを。

「心の問題(104ページ)」に気づいた、僕自身の「巡礼の年」のことを。

さあ、読んでいないあなたも、考えていないで、実際に読んでみるとよいですよ。