2013年5月11日土曜日

遺伝子は諦めていないのか

つい先日カミングアウトしたばかりの友人から「いつごろそうだと気づいたんですか」と聞かれて「小学三年生のころだね」と答えたら「早いですね」と驚かれた。

このやりとりには、実はだいぶ慣れている。よく聞かれる質問だし、驚かれるまでがワンセットだ。

だいたい小学生の頃にゲイを自覚したという話をすると、早いほうなのだと言われる。実は僕がこの質問をされた時にはふたとおりの答え方があって、それは「小学三年生」と「小学五年生」だ。

どう答えるかは気分による。なぜふたつ答えがあるかというと、「男を好きだ」と気づいたのが小学三年生で、「それをゲイというのだ」と知ったのが小学五年生だったからだ。

僕は男が好きだということ自体には、実はそう悩まなかった。そのことを気持ち悪いことだと自己否定するようなことはあんまりなかったし、人に言えないことだとは思っていたけれど、そんなことよりも普段の生活では他にいろいろ悩んだり考えたりすることがいっぱいあった。

どちらかと言うと、「女の子を好きになれない」ことのほうが重大だった。僕の記憶に強烈に残っているのはコンビニにならぶエロ本だ。同級生が過剰に反応しているコンビニのエロ本コーナーに、あの淫らなおっぱいのイラストや写真に、僕は生理的な嫌悪感しか感じられなかった。

あるとき理科の授業だったか道徳の授業だったか、僕達の自分の生命が何十億年も前のバクテリアみたいなのから連綿とつながれて生まれたもので、僕につながる生命のたった一人でも欠けていたら僕は生まれなかったのだということを聞かされたとき、やたらと怖く感じたのを覚えている。

途方も無い数の精子のなかのたったひとつが卵子と結びついて産まれた奇跡が云々と説かれ、そんな奇跡の連鎖をここにいる自分がストップさせたりしたらそれって相当罪深いことなんじゃないかと思い悩んだのだ。

そんな僕なのに精子はちゃんとつくられる。マスターベーションを覚えてティッシュに精液を放ちながら、こいつらが目的を果たせる日は来るのだろうかと思った。いつかどれかを卵子にたどり着かせてあげなければ可哀想だろうか。そう思って女の子の穴の中に挿入する想像をしてみたけれど、想像するだけでも不快だった。

女の子に対する嫌悪感は長い間どうしても消えなかった。いや、女の子自体は決して嫌いではない。とても仲の良い女の子はいたし、アイドルや歌手といった女の子たちは輝いて見えた。それでも裸の女の子を好きになることは絶対に無理だと思った。

中学生の頃、図書館で養子縁組のことを知った。これなら女の子とセックスをしなくても済むのではないかと思った。結婚式の誓いのキスくらいならしよう。友だちみたいな関係で結婚してもいいという女の子が現れてくれれば、僕はその女の子となんとかやっていけるのではないかと思った。

今考えれば、相手の女の子に対してとんでもなく失礼でエゴだらけな発想なのだけれど、そのころの僕は本気でそんなことを四六時中考えたりしていたのだ。

せめてバイセクシャルというやつに生まれればよかったのに、と思った。それでも男のことを好きな気持ちがなくなればとは思わなかった。

それは男の子のことを本当に魅力的だと思っていて、それを否定する気になんてなれなかったからだと思う。それは今だってそうだ。

ただし今では、女の子だって本当に魅力的な生き物なんだということがわかる。ただ僕には性的な目線で彼女たちをみる力は今でも備わっていないけれど、それでも今ならそう思う。彼女たちはとてもかわいいし、美しいし、魅力的だと思う。

男友達の恋の話も、今では親身になって聞くことができる。女の子に恋する男の話を聞きながら、共感したり、応援する気持ちになったり。そして自分の恋の話もできる。

それが性的な気持ちであろうとなかろうと、人の魅力を感じられる力というのはとても大事なことなのだと思う。今ではそう思えるようになった。性的な魅力がわからなくても、男の子や女の子、かわいいひとはやっぱりかわいい。かっこいいひとはやっぱりかっこいい。美しい人は美しい。

ただそうやって女の子の魅力を自分なりに捉えることできるようになったとはいえ。

そろそろ僕の睾丸は精子をつくるの無駄なんじゃないだろうか。こんなにも僕の脳は自分がゲイであることを肯定できているのに、何十億年前からの遺伝子にはかなわないものなんだろうか。出すことができるのは気持ち良いけれども。

女性アイドルみながら楽しんでるけど、それは恋愛感情にはならないよって、遺伝子は気づかないものなんだね。それとも、この期に及んで諦めていないんだろうか。、